クリスマスと茶の湯


クリスマスとは

 「クリスマス」という言葉はChristmas キリスト降誕祭をいい、古英語ではCristes masse(クリーステス・マッセ)といったところから来ています。

 Cristesはいうまでもなく救世主(キリスト)のことで、もともとはヘブライ語のマシーアハ(massiah⇒メシア)のギリシア語訳 Χριστοs(クリーストス)から来ていて、「油を注がれた者」の意味です。古代ヘブライ国家で、王は即位の礼として頭に油を注がれたところから、イスラエルの王を意味します。これが転じて、「イスラエルを救うために神が遣わすべき将来の王」の意味を持つようになり、キリスト教では「人類の罪をあがなうために神が遣わした救い主」をクリーストスと呼ぶようになったものです。

 このように「救世主降誕祭」という意味を持つ「クリスマス」ですが、プロテスタントやローマ・カトリック教会のほとんどは12月25日を降誕日としていますが,東方教会やアルメニア教会は12月25日あるいは1月6日を降誕日としています。しかし、イエスがこの日に生まれたという事実はありません。

  キリスト教の祝日はもともと誕生よりも死(と復活)に結びついています。(注-1)使徒や殉教者などさまざまな聖人の祝日はその人の誕生日でなく逝去記念日(命日)です。そもそもイエス・キリストについて、最初から祝われたのは主の復活を記念する毎週の「主の日」(主日)でした。主の死と復活こそ最大の関心事であって、生まれた日を重視しなかったので、古代の教会では、生まれた日付に関しては、見解を示していませんでした。

 それどころか、キリスト教の教義学を確立したアレキサンドリア学派の代表的神学者オリゲネス(紀元185?〜254?)は「クリスマスを定めることは異教的である」と非難し、誕生日を祝うのは異教の習慣だとして退けられたほどです。

 しかしやがて、キリスト教がヘレニズム世界に広がるにつれ、当初からの贖罪と復活とを中心とする救済主論に加え、ユダヤ教的、聖書的な枠組みを超えて、ギリシャ的な思弁によってどのようにイエス・キリストを再理解し、それを適切に表現するかが問題になってきて、十字架の死と復活によって成し遂げられた主の救いの御業 には、その前提として神が一人の人間であるイエスとして人間の肉体を持って生まれてきたこと、すなわち受肉・降誕(注-2) が伴っていることが重視されるようになります。「まことの神であってまことの人」である主は「聖霊によっておとめマリアから生まれ」た方として、その降誕を祝うようになります。そこで、聖書には降誕の日付の手がかりがないため、実にさまざまな降誕日が案出されました。

 そのなかで、東方教会では比較的早くから1月6日を主の洗礼の日(注-3) 、すなわち「主の公現」(顕現日)とされるようになりました。それは、ローマ帝国ではシーザー暦以降1月1日が一年の始まりとされていましたし、初期キリスト教徒は1月1日を天地創造の日としていました。聖書によれば人間の創造は6日目に当り、人間の出現は1月6日ということになります。それにあわせヨルダン川でのキリスト洗礼の日を1月6日として定め、Epiphania(神性の出現の意味、ご公現の祝日)とし、イエスが洗礼を受け、そのとき救世主として世に現われたというわけで、顕現(エピファニー)とは人間の経験世界の中に神的存在が出現すること、神の意志や力が人間に知覚できる仕方で示されることです。主の洗礼の場面では、天が開けて聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえます。それゆえに主の洗礼は父と子と聖霊、三位一体(注-4) の顕現であるとされました。

 人間の誕生とキリストの神性の授けられた日(顕現日)を重ね合わせたこの日は、長い間キリスト教会によって教会暦の元日とされていたのです。  やがて、東方教会では1月6日にキリストの誕生,東方の博士たちの賛歌,そしてヨハネによるキリストの受洗を一緒に記念する特別な集会を持つようになりました。この日はエジプトの暦では冬至にあたり、異教の神の誕生日として祝われていましたが、それに対置して、キリストこそ地上に現れた真の神であり、その降誕こそ神の顕現であるとされました。東方教会のクリスマスにあたるこの顕現日が西方にも伝わって行きました。 一方、西方ローマの暦では12月25日が冬至で、この前後には、当時の異教の祭日(注-5) が重なっていました。当時のローマで最大の宗教勢力はミトラス(ミトラ又はミスラなど)教でした。

  このミトラス教の最大の祭は、太陽神ミトラスの誕生日である冬至祭ディエースbr>  また、ミトラス神の太陽崇拝とキリスト崇拝を結び付けるために、もとは熱烈なミスラ教の信者で、後にキリスト教に改宗したコンスタンティヌス帝が意図的に12月25日の日付を使った事も影響しました。

 それでは、いつキリストの降誕日が12月25日になったかというと、これも確かなことは分かっていません。
 ローマ帝国から弾圧されてきたキリスト教が、紀元313年にローマ皇帝コンスタンティヌス帝が「ミラノ勅令」(紀元313年)を発してすべての宗教に信仰の自由を認めキリスト教を公認したあと、紀元325年、教義を統一するために、コンスタンティヌス帝が、小アジアのニケア (現トルコのイズニク)で開かせたキリスト教会初の公会議(第1回目)であるニケア宗教会議(注-6) で定められたとの説もありますが、これも定かではありません。

  ローマ教会が12月25日に降誕祭を行うようになるのは354年に教皇ユリウス1世(337-352)が「イエスの生誕(クリスマス)は12月25日である」と布告した以降で、379年からギリシア教会もこれに従うようになりました。確実な記録としましては、336年12月25日(注-7) にキリストの降誕祭が行われたことが記されています。
 このように、キリストの誕生日は、紀元325年〜354年の間に12月25日になったというのが、ほぼ確実であるようです。

 さて、それではイエスの誕生日は何時かというと、聖書にはイエスが生まれた日、「その地方で羊飼いが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(注-8) という記述があり、その野営していた羊飼いたちの前にイエスの誕生を知らせる御使いが現れるのですが、ユダヤの口伝律法ミシュナーによれば、牧童たちが野営できる季節は、初めの雨(秋の雨;申命記1章14節、ヨエル2章23節)までの期間であり、11月以降は、寒さのために野営しないと記されており、冬のイスラエルの寒さは厳しく、冬に野宿をするわけにはいかないようです。したがって、イエスの出生は、すくなくても冬である太陽暦12月25日ではないことが分かります。

 ルカ福音書では、イエスの誕生の半年前にバプテスマのヨハネが誕生したことが記されています。ヨハネの父ザカリヤは、アビヤの組の祭司だった(1章5節)。アビヤの組の祭司は、第8組に属し、イスラエル神殿での奉仕は、ユダヤ暦第4の月の後半に定められていた(第1歴代誌24章7−19節に、神殿で奉仕する祭司の当番表が記されている。)祭司ザカリヤの妻エリサベツがヨハネを懐胎したのは、「務めの期間が終わったのち」(1章23節)であった。つまり、ユダヤ暦第5の月のはじめであった。それから5カ月後、彼女が妊娠6カ月目に入ったときに、イエスの母マリヤがみごもった(1章24−26節)。つまり、ユダヤ暦第10の月(グレゴリウス暦12−1月)であった。そして、「月が満ちて」イエスが誕生された(2章6節)。これは、エリサベツと同様約9カ月であった(1章56−57節、2章6節)。つまり、イエスが誕生されたのは、ユダヤ暦第7の月(グレゴリウス暦9−10月)であることがわかります。
 さて、このユダヤ暦第7の月には、仮庵の祭りが行われており、イエスの誕生の時期を仮庵の祭りの頃とすると、聖書の他の記述とも調和します。
 つまり、12月25日はキリストの誕生日ではなく冬至という古代太陽信仰における太陽の誕生日なのです。


注-1
 「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。・・・だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」 (使徒言行録 2章22-24,36節)
注-2
 旧約聖書では、キリストの「受肉」(incarnation)などという考え方はなく、神はただ一つの絶対的な一者であった。ところがイエスが出現し、唯一の神に向かって「父よ」と呼びかけたのだ。この呼びかけは旧約にはなかった新約的関係である。さらにそのイエスは十字架にかかって死を迎え、そして復活をした。イエスの祈りを継承するのなら、そこに復活した「聖霊」(spiritus)を想定するしかなくなってくる。こうして新たな新訳信徒たちはイエスに倣って「父よ」と祈り、そこに同時に「主の祈り」というものを感じたわけである。そのうえ、神が父ならばイエスは子でなければならなかった。それなら聖霊は父からイエスによって派遣されたということになる。ヨハネ福音書には、この父・子・聖霊の三者が入り乱れる兆候が見えている。
 そこで教父哲学による神学的教義が生じてきた。イエスはもともと先在する者(これが本来の意味のロゴス)として永遠の昔から神の独り子としていたのだが、時いたって受肉して、その受肉者イエスを通して父なる神が啓示された。それとともに聖霊も父を根源とし、子を通して派遣された。
 ここで「受肉」こそは新たな神学的思想がつくりあげた概念であった。万物に先立って父なる神のもとに存在した独り子が人間となって地上に現れたことにより、救いが出来事になったということ、それが受肉なのである。一方、「聖霊」はすでにクムラン文書に芽生えていた観念で、新約聖書以降では「神の霊」、さらには積極的に「復活したキリストの霊」として解釈された。
注-3
 「そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、『わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところへおいでになるのですか』。しかし、イエスは答えて言われた、『今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである』。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下がってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』。」(マタイによる福音書3章13−17節)
注-4
 カルタゴの教父テルトゥリアヌス (155?〜223?) が初めて「三位一体 (トリニタス)」という表現を用いる。
注-5
 当時、以下のような「冬至前後の祭」があった。
サトゥルナーリア……ローマ人の冬至の祭。12月17日〜24日。農耕神サトゥルヌスの祭。常緑樹が飾られ、贈り物が交換され、どんちゃん騒ぎも行なわれた。ちなみに、サトゥルヌス(英語でサターン=土星)はサタン(悪魔)とは関係がない。
不滅の太陽神……3世紀初めのヘリオガバルス帝(218-222)は不滅の太陽神ソル・インウィクトゥスの誕生祭を12月25日と定めた。
イシス祭……ギリシア・ローマでも崇拝されたエジプトの女神イシスの祭は冬至の時期に行なわれた。
ユール祭……ゲルマンの祭。12月の10〜12日間。収穫祭・豊饒祭の性質を持つ。雄豚(豊饒神フレイの神獣)を供犠として捧げて食べた。現在も、クリスマスの季節をユールと呼び、北欧ではクリスマスに豚肉(ハム)を食べる。
ミトラス教……ミトラス教というのは、ペルシア起源の宗教で、ゾロアスター教(拝火教)の大天使で、有翼日輪の姿で表される太陽崇拝の象徴でもある、生と死を司るミトラス神を救世主とする密儀宗教である。紀元前3世紀ごろに生まれて、小アジア(トルコ)で発展した。2世紀ごろにはローマ軍団を中心にローマ帝国のほぼ全域に広まった。ローマ帝国の国教として扱われたこともある。307年か308年には、ディオクレティアヌス帝が「帝国の恩人」ミトラス神に祭壇を捧げた。しかし、キリスト教を奉じるコンスタンティヌス帝が帝国を統一したので、ミトラス教は一時引き下がった。"背教者"ユリアヌス帝(361-363)はミトラス神の復活をもくろんだが、その死後、382年、グラティアヌス帝の勅令によってミトラス教は禁止された。こうして、ミトラス教は迫害され、消滅した。ミトラス教の最大の祭は、冬至祭ディエース・ナタリス・ソーリス・インウィクティ(「無敵の太陽の生誕日」)であり、これがまさに12月25日だった。ミトラス教の最大の祭はキリスト教の中に「クリスマス」として残ることになったのである。これ以外にも、ミトラス教では太陽の日(ディエース・ソーリス)が聖なる日とされていたが、コンスタンティヌス帝はこれをキリスト教の安息日と合一させ、「日曜日は帝国の公の休日」と決定した。
「もしキリスト教が、なんらかの致命的な病によってその成長を止められていたならば、世界はミトラ信仰のものになっていたであろう」(エルネスト・ルナン『マルクス・アウレリウス』)
注-6
 三位一体を主張するアタナシウス派を正統とし,アリウス派を異端として排斥することを決定した宗教会議。アレクサンドリアの司祭アリウスは,イエス=キリストは人間であり,神によって選ばれた人ではあるが神性をもたず,天なる父と異にすると主張した。アリウスの説はアレクサンドリアの司教アレクサンデルによって誤りだとされ,318年アレクサンドリアで開かれた宗教会議でアリウスは追放された。しかしニコメディアの司教エウセビオスがアリウス説を擁護し,エジプト・リビアなど東方各地で支持者を得て東方の諸教会は分裂状態に陥った。324年,コンスタンティヌス大帝はコルドヴァの司教を派遣して両者の調停を試みたが失敗した。そこで大帝は,300人近い司教たちをニケアに召集して第1回公会議を開催し,自ら討議に参加した。会議に参加したのは大部分東方の司教で,西方からは数人しか参加しなかった。会議はニコメディアの司教エウセビオスに指導されたアリウスの支持者たち,アレクサンドリアの司教アレクサンデルを支持する者,そしてカイザリアの司教エウセビオスを中心とした大多数の中間派という三つのグループに分かれた。そしてカイザリアの司教エウセビオスが提出した「信仰告白」の原案を修正して正統的告白文を作成した。また司教アレクサンデルに随行した司教アタナシウスの活躍により〈父と子は同等である〉 Homoousia という式句を加えて神の三位一体とイエス=キリストの神性に関するいわゆる「ニケア信条」を採択し,"異質"を唱え「ニケア信条」に署名することを拒否したニコメディアのエウセビオスらのアリウス派を追放した。その他,復活祭の祝日の統一・司教の選任・司教区組織・独身制など20条にわたる決議を行った。そして381年,コンスタンティノープルにおける宗教会議で三位一体説が最終的に承認された。キリスト教による国家の統一をめざすコンスタンティヌス大帝にとっては,教会の分裂という事態は望ましいことではなかった。そのためキリスト論を定式化して教会の統一をはかり,教義・信条・教会組織・典礼などを統一する必要があった。
 ニケア信条は「われは信ず、全能の父、すべての見えるものと見えないものの創造主である神を。神の子、主イエス・キリスト、すなわち、父の本姓より神のひとり子として生れ、神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神、造られずして生まれ、父と同一実体である。天と地にあるすべてのものは、彼によって造られたり。彼は、われわれ人間とわれわれの救いのために下り、受肉し、人となり、苦しみ、3日目に復活し、天に昇って、生者と死者を裁くために来るであろう。また聖霊を(われわれは信ず。)そのため、『(神の子は)なかった時にあった。』、『生れる前にはなかった。』、『存在しないものから、または他の本性、または本質から造られた。』、『神の子は変化する。』というものを、カトリック教会は排斥する。」(改訂版「カトリック教会文書資料集」27頁)というもので、「ニケア・コンスタンチノープル信条」のこともニケア信条と呼ばれることがあるので、この信条は特に原ニケア信条と呼ばれる。
アリウス派:アレクサンドリアの司祭アリウス(250ごろ〜336)によって唱えられたキリスト論に組みする一派。アリウスは,聖父の神性を重視し,〈神のみは始まりをもたずに存在する〉という立場から,聖子キリストは父なる神の被造物である,と聖子の人性を強調した"聖子従属説"を主張し,アレクサンドリア司教アレクサンドロスによって,321年に破門された。そこで有力な教会政治家ニコメディア司教エウセビオスに助けを求めたので,教会全体を巻き込む論争になった。皇帝コンスタンティヌスは調停を試み,325年にニケーア公会議を召集,アリウスとその同調者の破門を決定,アリウスらは追放された。だが彼の死後,皇帝コンスタンティウス2世がアリウス説を信奉したこともあって,教勢は一時むしろ盛んになったが,徐々に正統派に吸収され,4世紀末からは,ゲルマン人のあいだに7世紀まで残存するにすぎなかった。
注-7
 信頼すべき記録の中で最も初期のものは,336年のローマの行事を記しているフィロカルスの暦(Philocalian Calendar)である。その中には「12月25日に,キリストはユ ダヤのベツレヘムでお生れになった」と書かれている。次に,ドイツの史家モムゼン(T. Mommsen,1817―1903年)が,354年のロー マの史家の筆になるものを発見した.その中には「キリスト後の第1年,カイザルとパウルス執政官任期中,主イエス・キリストは12 月25日金曜日,新月の第15日に生れたもうた」と書かれている。(新キリスト教辞典)
注-8
 イエスがヘロデ王の代に、ユダのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。そこで王は祭司長と民の律法学者達とを全部集めて、キリストはどこに生まれるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない、おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわしに知らせてくれ、わたしも拝みに行くから」。彼らは王のいうことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
(マタイによる福音書 2:1-12)
 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガラリヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互いに語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。彼らに合った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
(ルカによる福音書 2:1-20)

 
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