クリスマスと茶の湯


キリスト教の茶の湯への影響

 日本におけるキリスト教の歴史については次のように説明されています。

 『わが国におけるカトリックの宣教は1549(天文18)年8月15日、イエズス会員聖フランシスコ・ザベリオの鹿児島渡来によって始められた。当時交通 は極めて不便であったにもかかわらず、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ 会、アウグスチノ会等の会員がインド・フィリピン等から相次いで来日し、各地に教会、修道院、学校、病院等を設置して熱心に宣教に当ったので、教会は驚異 的発展を遂げ、1614(慶長19)年の統計によれば、聖職者150名、信徒数65万を超え、信徒の中には公卿2家及び大名55名があった。
  1587(天正15)年豊臣秀吉の時代に禁教令が敷かれ、漸次迫害が激烈化するに及んで、1597(慶長2)年2月5日長崎において26名の信徒が殉教を とげたのをさきがけに、多くの信徒が追放、死刑等の極刑に遭い、これがために教会は次第にその機能を失って、徳川時代の初期には全くその後を絶つに至った。』(日本カトリック中央協議会「日本のカトリック教会の歴史概説」)

 2002年(平成14)年12月時点のカトリック教会の統計によれば、司祭1,658名、信者数約45万(449,927人)であるということからみても当時の信徒の多さが伺えます。

 茶の湯の大成者である千利休(注-16) は堺の商人でした。
 当時の堺は茶の湯の中心地であり、またキリスト教が日本で布教されはじめた当初から、堺の町では切支丹信仰の萌芽を見せていました。
 天文19年(1550)の暮、聖ザビエルがキリスト教をひろめるために堺の町にやって来たときに、堺の富商であると同時に有数の茶人でもあった日比屋了珪(慶)(注-17) が面倒をみたといわれます。ザビエルは日本に来るに際して抱いていたほどの成果をあげることができず、翌年の10月には豊後から印度に帰ったが、8年後の永禄2年(1559)10月には、トルレスの命を受けたヴィレラがロレンソ、ダミアンなど三人の日本人を従えて堺の町にやって来ました。

 永禄4年(1561)、日比屋了珪は当時豊後にいたトルレスに進物を贈りデウスの教えを説く者を派遣してもらいたいと強く要請し、同年8月ヴィレラが再び堺の地に来て、1年間日比屋家に滞在し布教に当ったものの、堺での布教は容易ではなかったようで、この1年間で得られた信者数は僅かにして40人にしかすぎなかったということです。 永禄7年(1564)12月になると、今度はアルメイダとフロイスが豊後からやって来ましたが、了珪は屋敷内の瓦葺三階建の建物を聖堂にあてて、自らも洗礼を受けて洗礼名をディオゴと称し、日比屋家の人々もそのほとんどが入信しました。こうして了珪は堺における切支丹の先駆であったと同時に、多数の茶人を切支丹に導く上でもおおいに力を尽したのです。 千利休が茶湯の世界に登場し、活躍を始めたのもこの頃のことです。そして了慶の屋敷から200mの所に千利休の屋敷があり、50mの所に今井宗久の屋敷がありました。

 そして、茶道が戦国武将の間に迎えられ、いやしくも武将として一国一城の主ともあるほどの者ならば、この数奇の道に入らぬ者はないほどの盛行を呈したのは織田信長の時代からで、千利休をはじめ、堺の納屋衆や博多衆など町家出身の茶人が武将の間に伍して、最も活躍したのも永禄から天正にかけての時代、つまり覇権が信長の手に帰して、後に転じて秀吉が信長に代って天下に号令を下した約30年ほどの期間でした。そしてそれはまた、切支丹の歴史にとっても最も華々しい弘法の時代でもあったのです。

 ザビエルの来日によって布教が開始されたキリスト教は、拠点を西南九州に移してから徐々に勢力を伸ばしていきました。
 肥前の大村純忠はポルトガル船を自国内の横瀬浦に寄港させようと考え、領内での布教を許し、1563年(永禄6)には自ら受洗して初のキリシタン大名となり(洗礼名バルトロメウ)、長崎をイエズス会に寄進しました。
このあと、九州では1578年(天正6)に大友宗麟(フランシスコ)、1580年(天正8)有馬晴信(プロタジオ)が受洗しました。
 ひとつには西国の大名たちが、争って西欧文化の吸収につとめ、宣教師の引見も繁く行われ、また軍資金や軍需物資を獲得するため領国内にポルトガル船の入港を望み、切支丹になることもあったようです。キリシタン宣教師らは,戦国下にあって,まず地方戦国大名に接近し,布教公認を得ることを先決とし,そのために南蛮貿易,ときには軍事的援助をあえてしてもその歓心をえようと努め,大名クラスの入信を図ったこともまた事実です。

 一方、畿内では、1563年(永禄6)日本人宣教師ロレンソの説教を聞いて高山飛騨守友照(ダリオ)が入信し、その息子の高山右近(ジュスト)が12歳で受洗しています。

 1569(永禄12年)宣教師ルイス・フロイスは織田信長と会見し、京都居住布教を許可されます。
 織田信長は、安土城を築くにあたってはルイス・フロイスに築城上の意見を求めさせ、その結果本丸には大天主、小天主が築かれ、その上天主の内部には金・銀・朱泥が施されて、キリスト像やマリア像が祀られ、屋上には金色燦然たる十字架がかかげられたといいます。
 この天主という言葉自体も、太田錦城(1765−1825)は、『梧窓漫筆拾遺』の中で「西洋人は、家宅を五重七重に作りて、其第一の高層の処に、天主を祭る。信長公天主の邪教を仮りて、仏法を破却する志あり、其事は極めて謬れり、・・・、安土に大櫓を立てられて、天主と称す。是天下天主の始めなり、秀吉公の姫路の天主、大阪城の天主、伏見城の天主など是に次げり、後には大櫓を天主と称することと覚えて其所以を知らず、実は其の第一の上層に、天主を奉祀する故に、名付けたるにて、西洋人の真似をしたるなり。」とあり、天守の名は天主教から出たものとし、新井白石も『西洋紀聞』(下巻)の中で、「デウスというもの、漢に翻して天主とす。……天主教法の字は最勝王経に出づ」と書いています。
  『諸橋漢和』によると「【天守閣】城の本丸の中に、特に高く設けた物見櫓の称。三層・五層・七層などで、八棟造りなどに建てる。天主閣の名は、松永久秀が多聞城を築いた地に、織田信長が安土城を築いて、天主を祀ったことに起るという。一説に、仏教の帝釈を中央に、四隅に四天王を祀って守護神としたことに起るという。又、上杉謙信が、天主の称を憎んで天守と改めたともいう」となっています。
 1576(天正4年)に安土城は完成しましたが、1579(天正7年)信長は安土に教会建立を許可し、翌年にはセミナリオ(神学校)も誘致し、すでにキリシタンとなっていた高山右近が1500人の人夫を寄進し、安土教会の大成寺(ダイウス寺)と、木造三階建の神学校(セミナリヨ)とを建てました。

 このような中で、やがて全国百余侯中の三割にもあたる30侯が切支丹大名となり、いわば一つのブームとなっていったのです。
 この頃の風潮を示すよい例は、切支丹武士が戦場で十字を切り、聖母マリヤの名を唱えて出陣したところが大いに戦功を得て、しかも死傷がなかったなどという風聞がまことしやかに語られ、切支丹でない武士までがマリヤ像や十字架をこぞって求めることが流行したといいます。

 千利休が信長との関係が文献に見られるのは1570(元亀元年)49歳の時、信長の茶会において薄茶を点てたというのが初見です。利休も切支丹であったという説もありますが、利休が切支丹であったという証拠は残っていません。ただ利休の直弟子、つまり利休七哲といわれる人々の多くは切支丹か、さもなければ切支丹のよき理解者であったことは確かで、利休七哲と称される人々は『江岑夏書』(注-18)に初見するが、それによると次のようになっています。
一番 蒲生氏郷(注-19)  二番 高山右近 (南坊)(注-20) 三番 細川忠興 (三斎)(注-21) 四番 芝山宗綱(注-22) 五番 瀬田掃部(注-23)  六番 牧村利貞(注-24)  七番 古田織部(注-25)
 このなかでも高山右近は切支丹大名としては一番よく知られていますが、1564(永禄7年)に大和宇陀郡の沢城において洗礼を受け、洗礼名ジュストを名乗り、周囲に対しても入信を勧誘し、その結果、彼の勧めで入信した大名も数多く、蒲生氏郷、牧村利貞もまた右近の感化を受けて入信しましたが、利貞は入信するに際しては数多くいた妻妾を退け、身辺をきれいに整理したと伝えられています。
  また氏郷を入信に導くに際しても牧村の協力は多大であったといわれています。大和の沢城においてはキリスト昇天の図を日本人絵師に模写させ、沢城から移った摂津(大阪)の高槻城下では天正9年(1581)当時、2万5千人の領民のうち1万8千人を切支丹にしたといわれています。

 教会あるいはキリスト教信仰大名の特注茶道具、洗礼盤、聖水瓶、燭台、向付、皿などが作られ、十字架文が明瞭に描かれています。古田織部の指導で作られた織部焼には、十宇のクルス文、篦彫りの十字文が茶碗・鉢に施されていることは衆知のことです。 また、織部灯籠は、「十字灯籠」または 「切支丹灯籠」とも呼ばれています。 キリスト教伝播の初期においては、教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待するなど信者の司教と布教のため茶道に開心を示す文書もあり、当時の宣教師の残した文書の中にも「茶の湯は日本ではきわめて一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことができないものである。」(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ『日本巡察記』)として、すべての教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待することを指示しています。往時のキリスト教と茶の湯は、想像する以上に濃密な関係を持っていたといえるでしょう。

 このような中で、利休の妻や娘も信者であり、ミサにあずかっていたと思われます。 利休は、堺において宣教師の行うミサの儀式を見ていたと考えるほうが自然ですし、ミサという「最後の晩餐」の再現と「聖なるもの」と同一になるという精神性に、己の進むべき道を見出し、自らの茶の湯の中心にその所作を取り入れたのではないでしょうか。

 そうみると、利休の考案したにじり口は「狭き門より入れ」という言葉を想起させますし、世俗と切り離された茶室という空間で、身についた全てを捨て去り、ただ亭主と客というだけの関係の中で、茶の湯の亭主は、さながらミサにおける司祭のごとく儀式を司っているようにも見えます。

 茶の湯とカトリックのミサが所作における類似を超えて「俗なる物」を超越し「聖なるもの」へと昇華するプロセスとしての同一性を見て取れるのではないのでしょうか。

 しかし、慶長18年(1613)厳しいキリシタン禁教令発布により、礼拝の対象物である聖母像、聖画像、十字架の入手が不可能となり、キリシタン(キリスト教またはその信者の意味)は、表面的には神徒、仏徒となって、転宗したと偽り、ひそかに仮託として、キリシタン燈籠、異仏の大黒天、弁財天、慈母観音、石仏地蔵、丸鏡、珠数、根付、茶碗、香炉、火入、皿、壺、燭台などを信仰の代用対象物として秘匿しましたが、陶磁器においても慶長期の十字架文は明瞭で、禁教の厳しさを増した寛永期以降は、複雑な偽装化の花クルス文に変化した仮託文様の陶磁器が作られています。
 また、ギリシャ語の「イエスキリスト」「神の子」「救い主」の頭文字を一字づつとり、これをつなぐと「イクスト」つまり「魚」という言葉になるところから、キリスト教では聖体を現すのに「魚」を描くのですが、魚文様の陶磁器もまた、仮託文様の可能性があるといえるでしょう。

このように隆盛を誇ったキリスト教も、キリシタン禁制により、日本文化の表層からことごとくその痕跡は拭い去られ、茶の湯においても、キリスト教とは全く無縁のものとして、その拡がりを見せていったのです。


注-16
千利休 1522〜91(大永1〜天正19)
  戦国・安土桃山時代の茶人で,茶道の大成者として著名である。魚屋(ととや)田中与兵衛の長男として生まれ,与四郎と称した。家名の「千」は足利義政・義尚に同朋として仕えた祖父の田中千阿弥(せんなみ)からとったとされる。幼少のころから茶湯を好み,はじめ北向道陳について東山流の茶を学び、つぎに道陳の紹介で武野紹鴎に学び,また堺南宗寺,大徳寺において大林・笑嶺・古溪の3和尚に参禅し,和敬清寂の侘び茶の世界に到達した。初めは織田信長に仕えたが,元亀元年(1570)4月2日49歳の時、信長の茶会において薄茶を点てたのが信長との交渉の初見。(「今井宗久茶湯書抜」)信長亡き後は豊臣秀吉に仕え,秀吉には知行3千石を与えられ,さらに居士号を得た。茶事の改革に心を砕き,日本の生活文化のなかに茶道芸術として位置づけた意義は大きい。秀吉が関白となってからは,天下一の茶湯者と評され,大名から僧侶・町人にいたるまで門下に加わった。政治や外交問題にも参画するなど隠然たる勢力を誇ったが,大徳寺の山門上に寄進した金毛閣(きんもうかく)に自像を安置したことや,自作の茶道具を高価で売ったことなどを口実に,秀吉に処罰され,切腹した。利休の茶道は,子孫である千家によって代々受け継がれ,本流には表千家(不審庵),裏千家(今日庵),武者小路千家(官休庵)の3系統があり,傍系はすこぶる多い。
注-17
 日比屋了珪(慶)(ひびやりょうけい) 生没不詳 
  堺の貿易商。日本人からは、「リョウゴ」と呼ばれ、イエズス会総長に連署状を送った時には「了五了珪」と署名している。茶道関係文書にある「日比谷了慶」、「ヒビヤ了慶」、「比々屋了珪」などと同一人物。
1550(天文19)年12月、ザビエルが京都めざし瀬戸内海を堺へ向かっていく途中、寄港した港の有力者がザビエルの貧しい姿に同情して、堺にいる友人が了慶を紹介したらしい。了慶は貿易にたずさわり、当時珍しかった瓦葺き木造三階建ての屋敷に住む大豪商であった。京都へ行ったザビエルであったが、京都は応仁の乱による戦禍で荒れ果て、思うように布教することができず、わずか11日であきらめて堺へ帰った。それから1ヶ月あまり病気で療養したザビエルを、了慶は親切に世話をしたという。病気が癒えたザビエルは堺を出て平戸に戻り、再び山口で布教。領主の大内義隆に謁見、珍しい贈り物で歓心を買い布教が許されたらしい。
その後ザビエルは、日本布教を確固たるものにするためには、日本文化の源・中国の布教に着手すべきとの判断から、日本滞在2年3ヶ月で中国に向かい、旅の途中、1552年志半ばで中国南部の広東において46歳で昇天した。
1559(永禄2)年、布教のため堺にやってきたのがビレラで、了慶はこのときも布教を応援し、自分の家を教会堂とし、「南蛮寺」といわれた。1563年12月には、我が国初めてのクリスマスが南蛮寺で行われたという。
 了慶は自ら率先して洗礼を受け、サンチョと名乗った。その後13歳の息子も洗礼を受けてビセンテと名乗り、熱心のあまり九州・豊後へ行って宣教師トルレスの教えを受け、日本人イルマン(布教の助手)の中でももっとも優れた人物であった。娘も洗礼を受けモニカといい、十字架と聖書を四六時中手にして、みずから異教徒であるとして叔父との婚約を捨て、のちキリシタンの男性と結婚した。
日明貿易で繁栄を誇った堺は、自分たちの力で自分たちの町を守ることを考え、周囲に堀を巡らす自治都市へと発展していく。その中心が「会合衆」(えごうしゅう)と呼ばれる36人の大商人であり、了慶もその一人であった。同じ会合衆仲間の薬問屋、小西如清(じょせい)の子ペントにその娘を嫁がせて、キリスト教流の結婚式を挙げた。小西行長はペントの弟にあたる。
ビレラの後を受け継いで、1564(永禄7)年に畿内の布教にあたったのがフロイスで、フロイスもはじめは了慶の家を会堂としていた。了慶などの熱心な信者もいたが、堺での布教はかなり困難であった。その理由は、堺の人々はその富のためにかなり傲慢であり、「天国へ行くために自分の利権と名誉を捨てなければならないなら天国など行きたくない」という現実主義者が多かったことや、宣教師が布教のため金持ちに近づき貧者を避けたこと、堺がその富ゆえに、相国寺、東福寺に眼を付けられ、仏教が浸透していた、などであるとされる。
注-18
江岑夏書(こうしんなつがき)
 寛文3年(1663)千宗旦の三男である表千家四代江岑宗左によって書かれた覚書。父宗旦の利休茶の湯に関する談話を主に記した書。
注-19
 蒲生氏郷(がもううじさと) 1556〜1595(弘治2年〜文禄4年)
  近江蒲生郡の日野城にて誕生。藤原秀郷の子孫と言われるが、蒲生郡に居していたため蒲生姓を名乗った。氏郷の父、賢秀は日野城主にして、六角承禎に仕えており、信長が上洛に先立ち近江平定し、承禎を攻めた折、賢秀は降伏し、氏郷は人質として承禎から信長に差し出され、岐阜に送られた。永禄12年(1569)、元服して忠三郎。妻は信長の娘、冬姫。同年、初陣により戦功があり、日野城に帰された。元亀元年(1570)には、朝倉攻め。同2年(1571)、伊勢長島の合戦。同3年(1572)、長篠合戦。同6年(1575)、摂津伊丹攻め、同9年(1578)、伊賀攻め。同10年(1579)、武田攻め。文武両道に秀れ、ことにその才智は信長によく認められたという。本能寺の変では、信長の妻子を守って日野城に篭城。その後、秀吉に属し滝川一益を攻めたが、秀吉にもその才を愛され、天正12年(1584)、小牧の合戦で立てた戦功により、伊勢松島に封じられ、12万石が与えられた。正四位下、左近衛少将。その後、紀州攻め、九州遠征。天正18年(1590)小田原に出陣後、やはり戦功により陸奥守護となり、42万石。翌19年(1591)会津黒川(若松)城にあって92万石。これは秀吉の奥州方面司令官を任されたことを意味し、伊達政宗や徳川家康の監視役であり、牽制役でもあった。元々会津を所領にしていた伊達政宗には、大崎、葛西などの一揆を煽動されて悩まされている。 武勇のみならず、茶の湯にも秀れ、「利休七哲」に数えられ重んじられたため、利休の自刃ののち、細川三斎とともに千家再興に尽力した。また、高山右近との友誼によりキリシタンに帰依しており、洗礼名はレオン。朝鮮の役において、秀吉とともに名護屋城に居たが、発病を得て会津に戻り、文禄4年(1595)2月7日、京において没。40歳。あまりの才気ゆえに、秀吉に妬まれ毒殺されたとも、石田三成と直江兼続に謀殺されたとも、種説あるが、いずれも確証はない。
注-20
 高山右近(たかやまうこん) 1554〜1615(?〜元和1) 高山長房ともいう。
  安土桃山〜江戸時代前期の切支丹大名。摂津国高山の人。高山飛騨守の子。名は右近・右近大夫・友祥・重友,号を南之坊等伯。受洗名はドン=ジュスト。1573年(天正1),摂津の荒木村重と通じて高槻城を乗取り,村重の家臣となる。村重が信長へ謀叛するとき,右近は宣教師の手で信長に奪いとられた高槻城に教会の保証をとりつけ,明智光秀の配下に入る。山崎の合戦の前に秀吉方につき,光秀と戦う先鋒となり,以後秀吉の組下となった。摂津高槻城主(7万石)。翌1583年(天正11)5月賎ケ岳の戦いで佐久間盛政の猛襲をうけ,秀長の隊へ逃げ,小牧の戦いにも参加。紀伊浜城攻撃にも阿波−宮城攻撃にも参加,明石城主となったが,九州征伐にも従軍,大友吉統・小西行長・黒田如水(にょすい)らを洗礼。同年,キリシタン禁令により,明石城を没収されて,以来小西行長・前田利家を頼り,剃髪して南之坊等伯と号した。小田原城征伐に利家麾下として参加。その後寄食。関ケ原の戦いで利長軍に参加。1614年(慶長19)家康のキリスト教禁令により,追放をうけ,マニラへいく。茶人としても有名。
注-21
 細川忠興(ほそかわただおき) 1563〜1645(永禄6〜正保2) 戦国・江戸初期の武将。
  細川幽斎(藤孝)の子で,通称を与一郎といった。三斎と号するようになったのは,1619年(元和5)に家督を子忠利に譲って隠居してからである。父幽斎とともに織田信長に重んじられ,丹後宮津城主となった。妻の細川ガラシアが明智光秀の娘だったという関係で,1582年(天正10)の本能寺の変後,明智光秀から招かれたが,これには従わず,豊臣秀吉の側に属し,以後,豊臣大名の一人として好遇された。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは,父幽斎とともに東軍徳川家康方に属し,そのときの軍功によって豊前小倉城主となり,39万9,000石を領する。父幽斎と同様,単なる武将ではなく,文化人大名としても有名で,和歌・絵画はもちろん,蹴鞠・乱舞をはじめ,有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じ,茶の湯は,千利休に学び,利休門下七哲の一人に数えられるほどであった。著書に『細川三斎茶書』がある。
細川ガラシャ1563〜1600(永禄6〜慶長5)細川忠興の妻。明智光秀の娘で,細川忠興に嫁いだ。本名を玉といった。1587年(天正15)キリスト教に入信した。そのため,以後はキリスト教名のガラシアの名で親しまれている。1582年(天正10)の本能寺の変とそれにつづく山崎の戦いで,明智光秀が女婿である忠興を招いたが,忠興は光秀の謀叛が成功する見通しがないと判断し,かえって豊臣秀吉方に属すことになった。そのため,ガラシアは忠興から離縁され,しばらくのあいだ丹後国味土野(みどの)というところに幽閉されていたが、1584年になって,秀吉の許しを得て復縁している。キリスト教受洗は,その後,高山右近の働きかけによるものである。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いの直前,石田三成が,徳川家康に従って東征した諸将の妻女を人質にしようとしたとき,ガラシアは大坂入城を拒み,家老の小笠原少斎に胸を突かせて死んだ。
注-22
 芝山宗綱 監物丞、利休七哲の一人。桃山時代の武人で、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。
注-23
 瀬田掃部(せたかもん) ?〜1595 名は正忠。従五位下掃部頭。近江の出身とされるが武士として北条氏に仕え、後に豊臣秀吉に仕えた。茶の湯を千利休から学び、大成する。高麗茶碗を愛用したことで知られている。豊臣秀次の一連の騒動に巻き込まれ、処刑された。掃部形と称される大きな櫂先の茶杓を好んだことで知られる。お皿のように浅い高麗茶碗を持っていたのですが、水の取り扱いや茶筅をすすぐときなどとても難しいものでした。しかし、あまりにみごとなお茶碗なので、利休に銘をたのみ、ついた名前が『水海』。そして持ち主の瀬田と琵琶湖にかかる瀬田の唐橋とをかけて"勢多"と名付けられた茶杓を添えたといいます。彼は、普通の人なら使わない大きな平茶碗を茶に使い、さらにさらし茶巾という、客の前で水音さわやかに茶巾を絞る点前をやって見せました。利休もその点前に感心し、大いに認めることとなったようです。
注-24
 牧村利貞(まきむらとしさだ) ?〜1593(文禄2)兵部大輔。名を政治・政吉・高虎・正春ともいう。稲葉一鉄の庶長子重通の子で、外祖父牧村政倫の名跡を継ぐ。はじめ織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどに従軍。本能寺の変後は豊臣秀吉に属して小牧・長久手・九州の諸戦に参加した。1584年、高山右近の勧めでキリスト教徒となり、自らも説教を行い蒲生氏郷を改宗させた。また利貞は利休七哲の一人に数えられる高名な茶人でもあり、信長在世中から多くの茶会に名を連ね、ユガミ茶碗と呼ばれる変形茶碗を世に広めたことでも知られる。小田原平定後の1590年、伊勢国多岐・度会2郡内で2万600石を与えられ岩出城主となる。1592年、文禄の役が起こると石田三成とともに舟奉行として渡海するが、1593年7月2日に戦死。嗣子兵丸幼少のため、遺領は弟の稲葉道通が相続した。道通はのち関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後加増され同国田丸4万5700石に移封されたが、15歳になった兵丸が遺領の返還を求めると刺客を放ってこれを暗殺したという。なお道通の稲葉家は、子の紀通が1648年に発狂して自害したため廃絶となっている。

注-25
 古田織部(ふるたおりべ)1544〜1615(天文13〜元和1)利休なきあと茶の湯名人として織部流の武家茶道を確立した安土・桃山時代の茶人・大名。美濃の古田重定の子。信長・秀吉に仕え1585年(天正13),従五位下織部正に任ぜられ,織部と称されるようになる。小牧の合戦・九州平定などでの働きがあり,京都西岡で3万5,000石を領する。茶道に近づき千利休に学んで利休高弟七哲の一人となる。師の没後,一流をなし古織流・織部流をなのった。2代将軍秀忠を教え,諸大名にも茶の湯を伝授。茶室や庭園にかかわる織部灯籠の創案者でもある。関ケ原合戦では家康方に属したが,元和元年の大坂の合戦では豊臣方に内通したとの嫌疑をうけ自刃させられた。73歳であった。織部流のその後は古田斎宮を称し4世までつづく。織部の教えをうけた織部系の人物としては,遠州流の小堀政一,近世を通じ系統を維持した清水道閑,それに本阿弥光悦がいる。また,織部が瀬戸で造らせた茶器を織部焼という。


 
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