キリスト教の茶の湯への影響
日本におけるキリスト教の歴史については次のように説明されています。
『わが国におけるカトリックの宣教は1549(天文18)年8月15日、イエズス会員聖フランシスコ・ザベリオの鹿児島渡来によって始められた。当時交通 は極めて不便であったにもかかわらず、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ
会、アウグスチノ会等の会員がインド・フィリピン等から相次いで来日し、各地に教会、修道院、学校、病院等を設置して熱心に宣教に当ったので、教会は驚異 的発展を遂げ、1614(慶長19)年の統計によれば、聖職者150名、信徒数65万を超え、信徒の中には公卿2家及び大名55名があった。
1587(天正15)年豊臣秀吉の時代に禁教令が敷かれ、漸次迫害が激烈化するに及んで、1597(慶長2)年2月5日長崎において26名の信徒が殉教を とげたのをさきがけに、多くの信徒が追放、死刑等の極刑に遭い、これがために教会は次第にその機能を失って、徳川時代の初期には全くその後を絶つに至った。』(日本カトリック中央協議会「日本のカトリック教会の歴史概説」)
2002年(平成14)年12月時点のカトリック教会の統計によれば、司祭1,658名、信者数約45万(449,927人)であるということからみても当時の信徒の多さが伺えます。
茶の湯の大成者である千利休(注-16)
は堺の商人でした。
当時の堺は茶の湯の中心地であり、またキリスト教が日本で布教されはじめた当初から、堺の町では切支丹信仰の萌芽を見せていました。 天文19年(1550)の暮、聖ザビエルがキリスト教をひろめるために堺の町にやって来たときに、堺の富商であると同時に有数の茶人でもあった日比屋了珪(慶)(注-17)
が面倒をみたといわれます。ザビエルは日本に来るに際して抱いていたほどの成果をあげることができず、翌年の10月には豊後から印度に帰ったが、8年後の永禄2年(1559)10月には、トルレスの命を受けたヴィレラがロレンソ、ダミアンなど三人の日本人を従えて堺の町にやって来ました。
永禄4年(1561)、日比屋了珪は当時豊後にいたトルレスに進物を贈りデウスの教えを説く者を派遣してもらいたいと強く要請し、同年8月ヴィレラが再び堺の地に来て、1年間日比屋家に滞在し布教に当ったものの、堺での布教は容易ではなかったようで、この1年間で得られた信者数は僅かにして40人にしかすぎなかったということです。 永禄7年(1564)12月になると、今度はアルメイダとフロイスが豊後からやって来ましたが、了珪は屋敷内の瓦葺三階建の建物を聖堂にあてて、自らも洗礼を受けて洗礼名をディオゴと称し、日比屋家の人々もそのほとんどが入信しました。こうして了珪は堺における切支丹の先駆であったと同時に、多数の茶人を切支丹に導く上でもおおいに力を尽したのです。 千利休が茶湯の世界に登場し、活躍を始めたのもこの頃のことです。そして了慶の屋敷から200mの所に千利休の屋敷があり、50mの所に今井宗久の屋敷がありました。
そして、茶道が戦国武将の間に迎えられ、いやしくも武将として一国一城の主ともあるほどの者ならば、この数奇の道に入らぬ者はないほどの盛行を呈したのは織田信長の時代からで、千利休をはじめ、堺の納屋衆や博多衆など町家出身の茶人が武将の間に伍して、最も活躍したのも永禄から天正にかけての時代、つまり覇権が信長の手に帰して、後に転じて秀吉が信長に代って天下に号令を下した約30年ほどの期間でした。そしてそれはまた、切支丹の歴史にとっても最も華々しい弘法の時代でもあったのです。
ザビエルの来日によって布教が開始されたキリスト教は、拠点を西南九州に移してから徐々に勢力を伸ばしていきました。
肥前の大村純忠はポルトガル船を自国内の横瀬浦に寄港させようと考え、領内での布教を許し、1563年(永禄6)には自ら受洗して初のキリシタン大名となり(洗礼名バルトロメウ)、長崎をイエズス会に寄進しました。
このあと、九州では1578年(天正6)に大友宗麟(フランシスコ)、1580年(天正8)有馬晴信(プロタジオ)が受洗しました。
ひとつには西国の大名たちが、争って西欧文化の吸収につとめ、宣教師の引見も繁く行われ、また軍資金や軍需物資を獲得するため領国内にポルトガル船の入港を望み、切支丹になることもあったようです。キリシタン宣教師らは,戦国下にあって,まず地方戦国大名に接近し,布教公認を得ることを先決とし,そのために南蛮貿易,ときには軍事的援助をあえてしてもその歓心をえようと努め,大名クラスの入信を図ったこともまた事実です。
一方、畿内では、1563年(永禄6)日本人宣教師ロレンソの説教を聞いて高山飛騨守友照(ダリオ)が入信し、その息子の高山右近(ジュスト)が12歳で受洗しています。
1569(永禄12年)宣教師ルイス・フロイスは織田信長と会見し、京都居住布教を許可されます。
織田信長は、安土城を築くにあたってはルイス・フロイスに築城上の意見を求めさせ、その結果本丸には大天主、小天主が築かれ、その上天主の内部には金・銀・朱泥が施されて、キリスト像やマリア像が祀られ、屋上には金色燦然たる十字架がかかげられたといいます。
この天主という言葉自体も、太田錦城(1765−1825)は、『梧窓漫筆拾遺』の中で「西洋人は、家宅を五重七重に作りて、其第一の高層の処に、天主を祭る。信長公天主の邪教を仮りて、仏法を破却する志あり、其事は極めて謬れり、・・・、安土に大櫓を立てられて、天主と称す。是天下天主の始めなり、秀吉公の姫路の天主、大阪城の天主、伏見城の天主など是に次げり、後には大櫓を天主と称することと覚えて其所以を知らず、実は其の第一の上層に、天主を奉祀する故に、名付けたるにて、西洋人の真似をしたるなり。」とあり、天守の名は天主教から出たものとし、新井白石も『西洋紀聞』(下巻)の中で、「デウスというもの、漢に翻して天主とす。……天主教法の字は最勝王経に出づ」と書いています。
『諸橋漢和』によると「【天守閣】城の本丸の中に、特に高く設けた物見櫓の称。三層・五層・七層などで、八棟造りなどに建てる。天主閣の名は、松永久秀が多聞城を築いた地に、織田信長が安土城を築いて、天主を祀ったことに起るという。一説に、仏教の帝釈を中央に、四隅に四天王を祀って守護神としたことに起るという。又、上杉謙信が、天主の称を憎んで天守と改めたともいう」となっています。
1576(天正4年)に安土城は完成しましたが、1579(天正7年)信長は安土に教会建立を許可し、翌年にはセミナリオ(神学校)も誘致し、すでにキリシタンとなっていた高山右近が1500人の人夫を寄進し、安土教会の大成寺(ダイウス寺)と、木造三階建の神学校(セミナリヨ)とを建てました。
このような中で、やがて全国百余侯中の三割にもあたる30侯が切支丹大名となり、いわば一つのブームとなっていったのです。
この頃の風潮を示すよい例は、切支丹武士が戦場で十字を切り、聖母マリヤの名を唱えて出陣したところが大いに戦功を得て、しかも死傷がなかったなどという風聞がまことしやかに語られ、切支丹でない武士までがマリヤ像や十字架をこぞって求めることが流行したといいます。
千利休が信長との関係が文献に見られるのは1570(元亀元年)49歳の時、信長の茶会において薄茶を点てたというのが初見です。利休も切支丹であったという説もありますが、利休が切支丹であったという証拠は残っていません。ただ利休の直弟子、つまり利休七哲といわれる人々の多くは切支丹か、さもなければ切支丹のよき理解者であったことは確かで、利休七哲と称される人々は『江岑夏書』(注-18)に初見するが、それによると次のようになっています。
一番 蒲生氏郷(注-19) 二番 高山右近 (南坊)(注-20) 三番 細川忠興
(三斎)(注-21) 四番 芝山宗綱(注-22) 五番 瀬田掃部(注-23)
六番 牧村利貞(注-24) 七番 古田織部(注-25) このなかでも高山右近は切支丹大名としては一番よく知られていますが、1564(永禄7年)に大和宇陀郡の沢城において洗礼を受け、洗礼名ジュストを名乗り、周囲に対しても入信を勧誘し、その結果、彼の勧めで入信した大名も数多く、蒲生氏郷、牧村利貞もまた右近の感化を受けて入信しましたが、利貞は入信するに際しては数多くいた妻妾を退け、身辺をきれいに整理したと伝えられています。
また氏郷を入信に導くに際しても牧村の協力は多大であったといわれています。大和の沢城においてはキリスト昇天の図を日本人絵師に模写させ、沢城から移った摂津(大阪)の高槻城下では天正9年(1581)当時、2万5千人の領民のうち1万8千人を切支丹にしたといわれています。
教会あるいはキリスト教信仰大名の特注茶道具、洗礼盤、聖水瓶、燭台、向付、皿などが作られ、十字架文が明瞭に描かれています。古田織部の指導で作られた織部焼には、十宇のクルス文、篦彫りの十字文が茶碗・鉢に施されていることは衆知のことです。
また、織部灯籠は、「十字灯籠」または 「切支丹灯籠」とも呼ばれています。 キリスト教伝播の初期においては、教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待するなど信者の司教と布教のため茶道に開心を示す文書もあり、当時の宣教師の残した文書の中にも「茶の湯は日本ではきわめて一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことができないものである。」(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ『日本巡察記』)として、すべての教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待することを指示しています。往時のキリスト教と茶の湯は、想像する以上に濃密な関係を持っていたといえるでしょう。
このような中で、利休の妻や娘も信者であり、ミサにあずかっていたと思われます。 利休は、堺において宣教師の行うミサの儀式を見ていたと考えるほうが自然ですし、ミサという「最後の晩餐」の再現と「聖なるもの」と同一になるという精神性に、己の進むべき道を見出し、自らの茶の湯の中心にその所作を取り入れたのではないでしょうか。
そうみると、利休の考案したにじり口は「狭き門より入れ」という言葉を想起させますし、世俗と切り離された茶室という空間で、身についた全てを捨て去り、ただ亭主と客というだけの関係の中で、茶の湯の亭主は、さながらミサにおける司祭のごとく儀式を司っているようにも見えます。
茶の湯とカトリックのミサが所作における類似を超えて「俗なる物」を超越し「聖なるもの」へと昇華するプロセスとしての同一性を見て取れるのではないのでしょうか。
しかし、慶長18年(1613)厳しいキリシタン禁教令発布により、礼拝の対象物である聖母像、聖画像、十字架の入手が不可能となり、キリシタン(キリスト教またはその信者の意味)は、表面的には神徒、仏徒となって、転宗したと偽り、ひそかに仮託として、キリシタン燈籠、異仏の大黒天、弁財天、慈母観音、石仏地蔵、丸鏡、珠数、根付、茶碗、香炉、火入、皿、壺、燭台などを信仰の代用対象物として秘匿しましたが、陶磁器においても慶長期の十字架文は明瞭で、禁教の厳しさを増した寛永期以降は、複雑な偽装化の花クルス文に変化した仮託文様の陶磁器が作られています。
また、ギリシャ語の「イエスキリスト」「神の子」「救い主」の頭文字を一字づつとり、これをつなぐと「イクスト」つまり「魚」という言葉になるところから、キリスト教では聖体を現すのに「魚」を描くのですが、魚文様の陶磁器もまた、仮託文様の可能性があるといえるでしょう。