ミサと呼ばれるカトリックの礼拝形式の起源は、キリストの「最後の晩餐」にさかのぼります。
福音書によると(注-9) 、イエスはユダヤの教えに従い弟子たちと共に過ぎ越しの祝いをするために食卓につき、ユダヤ教の律法に代わる新しい救いの約束(新約)をした。そして、その会食の場でパンを自らの体、葡萄酒を自らの血と表現し、自分が昇天した後も繰り返し集まってこれらを捧げることで、全ての人の罪の許しのために処刑されたキリストの救いの約束を思い出すよう、弟子達に命じました。
原始キリスト教団において、異教徒への布教を積極的に行っていたパウロは、コリントの信者に送った書簡の中で、「私があなたたちに伝えたことは、主から授かったことである」とし、最後の審判の時まで、パンと葡萄酒を以てキリストの死を記念しつつ聖なる儀式を行うよう指示していいます。歴史上これがミサに関する最初の記述となります。
従って、ミサとは究極的に「食卓を囲み、パンと葡萄酒を分かち合いながらキリストの新しい約束を確かめ合う儀式」を指すものと言えます。パウロは既にここで、「主のおん体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食することである」とも述べており、既に儀式に使われるパンが「聖体」として神聖視されていたことがうかがえます。キリスト者は、ローマ帝国による迫害のなか、いのちがけで主の日に集まり、パンを割いて分かち合っていたのです(注-10)
。 今日のカトリック教会も、パンと葡萄酒をキリストの体と血に変える儀式(聖変化)からその2つを分配して食する儀式(聖体拝領)に至る部分をミサの中心とし、最も神聖な部分であると教えています。
当初会食に近い形で単純に行われていた礼拝が、その後中心となる聖体拝領の部分を精神的に準備する、回心(自らの罪を思い起こし悔い改めること)と、祈りの部分がつけ加えられていきます。当初は、各々の場所で独自に行われていたこの準備の方法も、聖グレゴリオ教皇の在位期間(590〜604年)に、中央集権的に整備され、中央(ローマ)においては、ほぼ現在のミサの原型が完成されています。(グレゴリオ聖歌の成立も彼に負うところが非常に大きい)
ただし、ミサの形式が全教会的に統一されるにはずいぶんの時間を要しています。実際、13世紀頃ローマ聖庁がミサ典書を編纂し、普及を図ったのですが、中世に各地方で個別に発達したミサの形式が統一された訳ではありませんでした。
最も重要な転換点は、宗教改革の起きた16世紀半ばに起こります。カトリック教会は、トリエント公会議の中で典礼の再整備を行い、1570年聖ピオ4世教皇の時、ラテン典礼の全教会で統一して実施されるべきミサの形式を示し、全てのミサがその形式で行われるよう徹底しました。折しも15世紀半ばに発明された印刷術が広く用いられるようになっていたため、この典礼は効率よく普及し、ほとんど全てのカトリック教会で使用されるようになりました。この形式は、第2回バチカン公会議によって新たに見直された典礼が施行される1962年まで、実に400年の長きにわたって変更されることなく使用されてきました。 |