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| 六之飲
七之事 八之出 九之略
十之圖 |
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○三皇(さんこう)
中国古代の神話上の帝王。三皇については諸説あり、前漢の司馬遷の『史記』秦始皇本紀に「臣等謹與博士議曰、古有天皇、有地皇、有泰皇、泰皇最貴。臣等昧死上尊號、王爲泰皇。命爲制、令爲詔、天子自稱曰朕。王曰、去泰、著皇、采上古帝位號、號曰皇帝。他如議。制曰可。」(臣等謹みて博士と議して曰く、古、天皇あり、地皇あり、泰皇あり。泰皇最も貴し。臣等昧死して、尊号を上つり、王を泰皇と為し、命を制と為し、令を詔と為し、天子自ら称して朕と曰はんと。王曰く、泰を去り、皇を著け、上古の帝位の号を采り、号して皇帝と曰はん。他は議の如くせんと。制して曰く可なりと。)とあり「天皇・地皇・泰皇」が挙げられている。唐の司馬貞が補した『史記』三皇本紀には三皇として「伏羲・女媧・神農」をあげ、また「故其祚胤繁昌久長云、一說三皇謂、天皇、地皇、人皇、爲三皇、既是開闢之初、君臣之始。」ともみえる。『尚書大傳』は「燧人・伏羲・神農」、『風俗通』に「春秋運斗樞說、伏羲、女媧、神農、是三皇也。」「禮號謚記說、伏羲、祝融、神農。」「含文嘉記、虙戲、燧人、神農。」と見え、
『春秋緯』運斗樞は「伏羲・女媧・神農」、『禮號謚記』は「伏羲・祝融・神農」、『礼緯含文嘉記』に「虙戲・燧人・神農」とあるという。後漢の班固の『白虎通』号篇に「伏羲・神農・祝融」
とあり、西晋の皇甫謐の『帝王世紀』に「伏羲・神農・黄帝」 とある。 |
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○炎帝神農氏(えんていしんのうし)
中国古代の神話上の帝王。三皇の一とされる。唐の司馬貞が補した『史記』三皇本紀に「炎帝神農氏、姜姓、母曰女登、有媧氏之女、為少典妃、感神龍而生炎帝、人身牛首、長於姜水、
因以為姓、火德王、故曰炎帝、以火名官、斲木為耜、揉木為耒、耒耨之用、以教萬民、故號神農氏。於是作蜡祭、以赭鞭鞭草木、始嘗百草、始有醫藥。」(炎帝神農氏は、姓は姜、母は女登と曰う、有媧氏の女、少典の妃と為る、神龍に感じて炎帝を生む、人身牛首、姜水に長ず、
因りて以って姓と為すと。火徳の王、故に炎帝と曰う、火を以って官に名づく、木を断り耜と為し、木を揉め耒と為し、耒耨の用、以って万民に教ゆ、故に神農氏と号す。是に於いて蜡祭を作し、赭鞭の以って草木を鞭め、始めて百草を嘗め、始めて醫薬あり。)とあり、炎帝神農氏の出生地は、一説には現在の陝西省の宝鶏地区といわれ、また一説には湖北省の随州といわれる。姜水という川のほとりで成長したので、姜という姓になり、火を使うことを発明したので「炎帝」、最初に農耕道具を作り、耕作を教えたので「神農」と言われ、百草をなめて医薬を発見した。伝説によると神農は天台山で薬草と誤って「火焔子」(俗称「断腸草」)を食して死に、蓮花台に葬られたとされる。一般的には神農(しんのう)と呼ばれる。 |
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○周(しゅう)
中国古代の王朝(B.C.1066~B.C.771)。 |
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○魯周公旦 周公旦(しゅうこうたん)。姓は姫(キ)。名は旦(タン)。周の武王の弟。宋代の邢昺の『爾雅注疏』に「周公倡之於前、子夏和之於後」とあるように、『爾雅』の著者に擬されていた。『史記』魯周公世家に「周公旦者、周武王弟也。自文王在時、旦為子孝、篤仁、異於群子。及武王即位、旦常輔翼武王、用事居多。武王九年、東伐至盟津、周公輔行。十一年、伐紂、至牧野、周公佐武王、作牧誓。破殷、入商宮。已殺紂、周公把大鉞、召公把小鉞、以夾武王、釁社、告紂之罪于天、及殷民。釋箕子之囚。封紂子武庚祿父、使管叔、蔡叔傅之、以續殷祀。遍封功臣同姓戚者。封周公旦於少昊之虛曲阜、是為魯公。周公不就封、留佐武王。」とある。 |
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○齊相晏嬰
晏嬰(あんえい)。春秋時代の斉(B.C.1046~B.C.386)の政治家。姓は晏(アン)。諱は嬰(エイ)。字は仲(チュウ)。諡は平(ヘイ)。莱の夷維の人。父は晏弱(晏桓子)。霊公、荘公、景公の三代に仕え、上を憚ることなく諫言を行った。 |
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○漢(かん) 中国の王朝。秦(B.C.221~B.C.206)の滅亡後、劉邦によって建てられた前漢(B.C.206~8)と、漢の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた前漢を再興して立てた後漢(25~220)がある。前漢(ぜんかん)の都は長安。
後漢(ごかん)の都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。 |
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○仙人丹丘之子
『神異記』に出る仙人。丹丘(たんきゅう)に住まう人か。 |
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○黃山君(こうざんくん)
『神仙傳』に出る仙人。『神仙傳』に「黃山君者、修彭祖之術、年數百歲、猶有少容。亦治地仙、不取飛昇。彭祖既去、乃追論其言、為彭祖經。得彭祖經者、便為木中之松柏也。」(黄山君は、彭祖の術を修め、年は数百歲にして、猶お少容あり。亦た地仙を治めんと、飛昇を取らず。彭祖の既に去り、乃ち其の言を追論し、彭祖経を為す。得彭祖経者、便為木中之松柏也。)
とある。 |
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○司馬文園令相如
司馬相如(しばそうじょ)。前漢の頃の文章家。B.C.179年~B.C.117年。字は長卿。蜀郡成都の人。名は犬子といったが、、戦国時代の趙の将軍の藺相如を慕い、名を相如に改めた。貲により郎になり景帝に仕え、武騎常侍となるが、景帝が辭賦を好まず、官を辞し、梁に行き文士らと共に住んだ。賦の名人として名がある。
『史記』 に伝があり、太史公自序に「子虛之事、大人賦說、靡麗多誇、然其指風諫、歸於無為。作司馬相如列傳第五十七。」
(子虚の事、大人の賦の説、麗に靡し誇多し、然れども其の指風は諫にして、無為に帰す。故に司馬相如列伝第五十七を作る。)とある。 |
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○楊執戟雄(ようしつげきゆう)
楊雄(よう ゆう)。前漢末の文人、学者。B.C.53年~18年。姓は揚、あるいは楊に作る。字は子雲。蜀郡成都(四川省成都)の人。40過ぎて洛陽に出て、『甘泉賦』『河東賦』『羽猟賦』『長楊賦』を成帝に奏上し、給事黄門郎となった。『前漢書』巻87に「揚雄傳」がある。『太玄經』、『法言』、『方言』などの著作がある。執戟は官名。三国魏の曹植(192~232)の「與楊徳祖書」に「昔揚子雲、先朝執戟之臣耳。猶稱壯夫不爲也。」(昔、揚子雲は、先朝の執戟の臣たるのみ。猶お壮夫は為さざるなりと称す。)とみえる。
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○吳(ご) 三国時代(220~280)に孫権が長江流域に建てた国。222年~280年。首都は建業(現在の南京付近)。東呉、孫呉、孫氏呉とも呼ばれる。
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○歸命侯(きめいこう)
呉の第4代皇帝(在位264~280)孫皓(そんこう)。242年~ 284年。字は元宗。呉の初代皇帝孫権の第3子で皇太子に立てられていたが廃された孫和の子。景帝の甥。永安元年(258)烏程侯に封ぜられたが、永安7年(264)3代皇帝景帝が亡くなると、迎えられて帝位につき、元興と改元した。即位直後に大官を殺し、景帝の生母(太后)ら一族を刑戮し、暴驕で酒色を好んだ。天紀4年(280)晋が呉を攻めると孫晧は自らを縛して降伏したため、帰命侯の号を賜る。洛陽で没し、河南に葬られた。
諡号は無いが、後世から末帝と称されている。 |
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○韋太傅弘嗣(いたいふこうし)
韋昭(いしょう)。呉の政治家。 ~273年。姓は韋。字は弘嗣、呉郡雲陽(江蘇省丹陽県)の人。丞相府掾・西安県令・尚書郎を経て、太子中庶子として孫和に仕え、孫和が廃されると黄門侍郎となる。孫亮の即位で諸葛恪に推挙されて太史令とされ、『呉書』を撰述した。孫休の即位で中書郎・博士祭酒に、孫皓の即位で中書僕射・高陵県侯とされ、侍中に進められた。諫言が重なって孫皓に憎まれて処刑され、家族は零陵に流された。太傅(たいふ)は官名。幼帝選立の際、特別に置かれて教育補導に当たる。 |
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○晉(しん) 中国の王朝。265年に司馬炎が魏の元帝より禅譲を受け王朝を立て、280年呉を滅ぼして中国を統一した。後に匈奴の大首長劉淵に攻められ316年長安が陥落して滅亡。建康に遷都した後の東晋に対して西晋(265~316)と呼ばれる。東晋(317~420)は、劉淵に滅ぼされた後に、琅邪王司馬睿によって江南に建てられた晋の亡命王朝。
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○惠帝(けいてい)
晋の2代皇帝(在位290~306)。259年~306年。姓は司馬、諱は衷、字は正度。諡号は孝恵皇帝。武帝(司馬炎)の次男。生母は楊皇后。生まれつき暗愚で、永煕元年(290)帝位についたが、実権は皇后の賈氏が握った。賈后の専権に反する趙王司馬倫が永康元年(300)に賈后を殺し洛陽を制し、永康2年(301)正月に司馬倫に迫られて譲位。太上皇とされ、金墉城(このとき永昌宮と改称された)に幽閉される。永康2年(301)4月、司馬倫が斉王司馬冏らによって殺害されると復位する。光熙元年(306)洛陽の顯陽殿にて、餅を食べて食中りのため49歳で崩御。毒殺されたともいう。遺体は太陽陵に埋葬されたという。
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○劉司空琨(りゅうしくうこん)
劉琨(りゅうこん)。270年~317年。字は越石。中山魏昌の人。前漢の景帝の子の中山靖王劉勝の子孫。姉は晋の趙王司馬倫の妃。西晋に仕える。雄豪をもって著名。若いころ、賈謐の下の文人集団「二十四友」に名を連ねた。愍帝の建興3年
(315)司空となる。鮮卑の段匹磾と義兄弟の契り結びんだことを疑われて殺された。『晉書』に伝がある。司空(しくう)は官名。 |
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○琨兄子兗州刺史演
劉演(りゅうえん)。字は始仁。劉琨の兄劉輿の子。 『晉書』に伝がある。兗州刺史(えんしゅうさっし)は官名。 |
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○張黃門孟陽 張載(ちょうさい)。字は孟陽。河北安平の人。西晋の文学者。蜀郡太守張収の子。太康年間(280~289)著作郎となり、太子舎人に転じ、弘農太守にうつり、長沙王乂に召されて記室督となり、中書侍郎となったが、世の乱れているのを見て、ついに自家に隠退して終った。博学の文章家として名高く、蜀の剣閣を越えるときに作った「剣閣銘」をはじめ「権論」「濛氾池賦」などが知られる。『張孟陽集』1巻がある。『晉書』に伝がある。 |
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○傅司隸咸 傅咸(ふかん)。239年~294年。字は長虞。北地郡泥陽の人。傅玄の子。咸寧初年、尚書右丞に任ぜられた。司徒左長史・車騎司馬に進んだ。恵帝のとき、尚書左丞・御史中丞を歴任した。しかし、司馬亮を諫め、夏侯駿を弾劾したため免官された。のち、議郎・司隷校尉となり、緩みきった朝廷の綱紀を粛正するため、「河南尹」の澹、「左将軍」の倩、「廷尉」の高光、「兼河南尹」の何攀を罷免するよう上奏し、そのために都は粛然とし、高貴の者は恐れおののいたという。『晉書』に伝がある。司隸(しれい)は、司隷校尉で、首都圏数郡の風紀を取り締まることを職務とする行政監察官。 |
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○江洗馬統 江統(こうとう)。~300年。字は應元。陳留圉の人。五胡の乱に先立ち元康9年(299)「徙戎論」を作り、氐、羌など異民族を移住させ、その脅威の除去を上奏した。太康5年(284)太子洗馬となる。『晉書』に伝がある。洗馬は太子洗馬で官名。 |
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○孫參軍楚
孫楚(そんそ)。218年?~293年。字は子荊。太原中都の人。西晋の文人。四十過ぎてから鎮東将軍の石苞の下で参軍をつとめ、晋の惠帝のとき馮翊太守となる。『晉書』に「楚少時欲隱居、謂濟曰、當欲枕石漱流。誤云、漱石枕流。濟曰、流非可枕、石非可漱。楚曰、所以枕流、欲洗其耳、所以漱石、欲厲其齒。」とあり、孫楚が若いとき隠居しようと、王済に「石に枕し、流れに漱がんと欲す。」というべきところを誤って「石に漱ぎ、流れに枕す。」と言い、王済が「流れは枕すべきに非ず。石は漱ぐべきに非ず。」と言うと、孫楚は「流れに枕する所以は、其の耳を洗わんと欲すればなり。石に漱ぐ所以は、其の歯を厲かんと欲すればなり。」と強弁したという故事は「漱石」の語源として有名。『晉書』に伝がある。 |
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○左記室太沖 左思(さし)。250年?~305年?
字は太沖。斉の臨緇の人。西晋の文人。蜀都賦・呉都賦・魏都賦の「三都賦」により洛陽の紙価が高めた。『晉書』文苑傳に伝がある。 |
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○陸吳興納 陸納(りくのう)。字は祖言。『晉書』に伝がある。吳興は吳興太守。
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○納兄子會稽內史俶
陸俶(りくしゅく)。 會稽內史。 |
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○謝冠軍安石 謝安(しゃあん)。320年~385年。字は安石。梁国陽夏の人。若い頃は仕官せず、会稽に住んで王羲之らと交際し清談にふけった。升平4年(360)、四十一歳で初めて桓温の司馬として仕えた。桓温の簒奪の野心を抑え、寧康元年(373)尚書僕射となり、後将軍を加えられた。のち録尚書事・侍中・衛将軍などを歴任。太元八年(383)前秦の苻堅が大軍を率いて南下すると征討大都督に任ぜられ淝水でこれを撃破した。『晉書』に伝がある。 |
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○郭弘農璞 郭璞(かく
はく)。晋(265~419)の学者。276年~324年。字は景純。河東郡聞喜の人。五行・天文・卜筮に通じた。乱を避けて長江を渡り、王導に仕えて参軍となった。元帝はその文才を嘉し、著作佐郎に任じ、尚書郎に遷った。王敦に仕えて記室参軍に上ったが、その乱の成否を筮で占うよう命令され、「無成」と予言したため殺された。「遊仙詩」「江賦」などを作る。『爾雅』、『三蒼』、『方言』、『穆天子傳』、『山海經』などの注釈者として知られる。弘農は、死後に弘農太守の官を追贈されたため、この名がある。『晉書』文苑傳に伝がある。 |
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○桓揚州溫 桓溫(かんおん)。312年—373年。字は元子。譙の龍亢の人。東晋の明帝の娘の南康公主の婿となり、軍政の実験を握り、北伐を決行し一時的に西晋の旧都洛陽を奪還し、東晋を牛耳り、帝位の禅譲を目論んだが周囲の反対に逢い失敗した。興寧2年(364)揚州牧となっている。『晉書』に伝がある。 |
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○杜舍人毓 杜毓(といく)。字は方叔。襄城鄧陵の人。永嘉年中(307~313)右将軍に進み、後に國子祭酒になる。中書舍人に任じられたことがある。 |
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○武康小山寺釋法瑤
釋法瑤(しゃくほうよう)。宋の釋智圓の『閑居編』に「高僧法瑤宋元嘉中尚書沈演之請住武康小山寺撰述涅槃等疏」(高僧の法瑤は、宋の元嘉中(424~453)に尚書の沈演の請で武康小山寺に住し、涅槃等の疏を撰述す。)、宋の釋從義の『天台三大部補注』に「宋朝吳興小山法瑤姓楊河東人少而好學尋問萬里撰涅槃法華大品等疏春秋七十有六」(宋朝の呉興小山の法瑤は、姓は楊、河東の人、少にして学を好み万里を尋問し涅槃法華大品等の疏を撰す、春秋は七十有六。)とある。梁の釋慧皎の『高僧傳』には「釋法珍。姓楊。河東人。少而好學尋問萬里。宋景平中來遊兗豫。貫極眾經。傍通異部。後聽東阿靜公講。眾屢請覆述。靜歎曰。吾不及也。元嘉中過江。吳興沈演之特深器重。請還吳興武康小山寺。首尾十有九年。自非祈請法事未嘗出門。居于武康每歲開講。三吳學者負笈盈衢。乃著涅槃法華大品勝鬘等義疏。大明六年敕吳興郡致禮上京。與道猷同止新安寺。使頓漸二悟義各有宗。至便就講。鑾輿降蹕百辟陪筵。珍年雖栖暮。而蔬苦弗改。戒節清白。道俗歸焉。宋元徽中卒。春秋七十有六。」とあり、釋法珍とする。 |
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○沛國夏侯愷 夏侯愷(かごうがい)。『太平廣記』に「夏侯愷。字万仁、得病去世。」(夏侯愷。字は万仁、病を得て世を去る。)とある。
沛国(はいこく)は、今の安徽省沛県を中心とする地域。 |
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○余姚虞洪 虞洪(ぐこう)。未詳。「四之器」に「永嘉中、余姚人虞洪」とあり、西晋の永嘉の人か。余姚(よよう)は、今の浙江省余姚市。 |
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○北地傅巽 傅巽(ふそん)。字は公悌。北地泥陽の人。容貌優れ博学で人物評価の才があった。建安中(196~220)に東曹掾になり、劉宗に曹操への帰順を説き、曹操からその功により関内候の爵を賜る。黃初中(220~226)に侍中になり、尚書となる。 |
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○丹陽弘君舉 弘君舉(こうくんきょ)。
未詳。 |
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○樂安任育長 任育長(にんいくちょう)。名は瞻。字は育長。楽安の人。謁者僕射、都尉、天門太守を歴任する。『世說新語』に「任育長年少時、甚有令名。武帝崩。選百二十挽郎。一時之秀彥、育長亦在其中。王安豐選女婿、從挽郎搜其勝者、且擇取四人、任猶在其中。童少時神明可愛、時人謂育長影亦好。自過江、便失志。王丞相請先度時賢共至石頭迎之、猶作疇日相待、一見便覺有異。坐席竟、下飲、便問人云、此為茶、為茗。
覺有異色、乃自申明云、向問飲為熱為冷耳。嘗行從棺邸下度、流涕悲傷。王丞相聞之曰、此是有情癡。」 とある。樂安は、今の山東省博興一帯。 |
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○宣城秦精 秦精(しんせい)。
未詳。宣城は、今の安徽省宣州市。 |
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○敦煌單道開 單道開(ぜんどうかい)。梁の釋慧皎の『高僧傳』に「單道開。姓孟。燉煌人。少懷栖隱。誦經四十餘萬言。絕穀餌柏實。柏實難得復服松脂。後服細石子。一吞數枚數日一服。或時多少噉薑椒。如此七年。後不畏寒暑冬溫夏涼。晝夜不臥。與同學十人共契服食。十年之外或死或退。唯開全志。阜陵太守遣馬迎開。開辭能步行三百里路。一日早至山樹。神或現異形試之。初無懼色。以石虎建武十二年從西平來。一日行七百里。至南安度一童子為沙彌。年十四。稟受教法行能及開。時太史奏虎云。有仙人星見。當有高士入境。虎普敕州郡。有異人令啟聞。其年冬十一月。秦州刺史上表送開。初止鄴城西法綝祠中。後徙臨漳昭德寺。於房內造重閣。高八九尺許。於上編菅為禪室。如十斛籮大。常坐其中。虎資給甚厚。開皆以惠施。時樂仙者多來諮問。開都不答。迺為說偈云。我矜一切苦。出家為利世。利世須學明。學明能斷惡。山遠糧粒難。作斯斷食計。非是求仙侶。幸勿相傳說。開能救眼疾。時秦公石韜就開治目。著藥小痛韜甚憚之。而終得其效。佛圖澄曰。此道士觀國興衰。若去者當有大災。至石虎太寧元年。開與弟子。南度許昌。虎子姪相殺鄴都大亂。至晉昇平三年。來之建業。俄而至南海。後入羅浮山。獨處茅茨蕭然物外。春秋百餘歲卒于山舍。敕弟子以屍置石穴中。弟子迺移之石室。」
とある。 『晉書』文苑傳に伝がある。敦煌は、今の甘肅省敦煌。 |
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○剡縣陳務妻 陳務は未詳。『太平廣記』は「陳婺」に作る。
剡縣は、今の浙江省嵊州市。 |
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○廣陵老姥 『太平廣記』卷第70女仙に「茶姥」の項があり「廣陵茶姥」に作り、『墉城集仙錄』に出るとある。『墉城集仙錄』は、唐の杜光庭の撰で、「廣陵茶姥者、不知姓氏鄉里、常如七十歲。人而輕健有力、耳目聰明、髮鬢滋黑。耆舊相傳云晉元南渡後見之、數百年顏狀不改。每旦將一器茶賣於市、市人爭買、自旦至暮、而器中茶常如新熟、未嘗少減。吏繫之於獄、姥持所賣茶器、自牖中飛去。」(広陵の茶姥は、姓氏鄉里を知らず、常に七十歳の如し。人は軽健にして力あり、耳目聡明にして、髮鬢滋黒く。耆旧相い伝えて云う、晋の元の南渡の後、之を見るに、数百年顏状改まらず。每旦、一器を将って茶を市に売る、市人争いて買うに、旦より暮に至る、而して器中の茶は常に新しきが如く熟し、未だ嘗て少しも減らず。吏が之を獄に繋ぐ、姥は売茶器を持所し、自ら牖中に飛去る。)とある。廣陵は、今の江蘇省江都市。 |
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○河內山謙之 山謙之(さんけんし)。『宋書』列傳第70自序に「宋故著作郎何承天始撰宋書、草立紀傳、止于武帝功臣、篇牘未廣。其所撰志、唯天文、律曆、自此外、悉委奉朝請山謙之。謙之、孝建初、又被詔撰述、尋值病亡。」とある。河內は、今の河南省沁陽市。 |
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○后魏(こうぎ)
北魏(ほくぎ)。386年~534年。南北朝時代に鮮卑拓跋部によって華北に建てられた王朝。三代太武帝の493年に華北を統一。これより南北朝に入る。六代孝文帝の494年には都を大同から洛陽に移す。国号は「魏」だが、三国時代の魏に対して「後魏」、南北朝の南朝に対して北朝を開いたので「北魏」、拓跋氏が後に元氏と称したので「元魏」などの呼称が用いられる。
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○琅邪王肅 王肅(おうしゅく)。464年~501年。字は恭懿。琅邪臨沂の人。南朝の斉の秘書丞であったが、太和18年(494)北魏に帰順し、孝文帝に重用された。『洛陽伽藍記』巻3には「肅字公懿」とある。『魏書』に伝がある。琅邪は、今の山東省臨沂市。 |
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○宋(そう) 南北朝時代(439~589)の王朝。南朝の一。420年~479年。劉裕(高祖・武帝)が東晋から禅譲を受けて420年に開いた王朝。北では北魏が華北統一に追われていた事もあり、建国直後は概ね平和で、三代文帝の治世は当時の元号を取って「元嘉の治」と称され安定していたが、453年皇太子によって殺される。六代明帝以降は政が乱れ、479年八代順帝が蕭道成に禅譲した。蕭道成は、斉王朝を開き、宋は滅亡した。
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○宋安王子鸞 子鸞(しらん)。456年~465年。姓は劉。字は孝羽。南朝宋の四代孝武帝の第八子。母は殷淑儀。孝武帝の寵愛を受け、5歲で襄陽王に封ぜられ、改めて新安王に封ぜられ、北中郎將、南徐州刺史、南琅邪太守。司徒、都督南徐州諸軍事、中書令となる。孝武帝が亡くなり、長子の子業(前廃帝)が即位すると、10歳で死を賜い、彼の同母弟の子師や同母妹も殺され、子鸞の母の墓も暴かれた。『宋書』孝武十四王傳に伝がある。
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○鸞弟豫章王子尚
子尚(ししょう)。450年~465年。姓は劉。字は孝師。南朝宋の四代孝武帝の第二子。母は皇后王憲嫄。前廃帝の劉子業の同母弟。孝建3年(456)西陽王、揚州刺史。大明5年(461)豫章王に改封、會稽太守。大明7年(463)車騎將軍、散騎常侍。前廃帝が即位すると、揚州と南徐州の両州都督、尚書令。前廃帝が殺され明帝が即位すると死を賜う。『宋書』孝武十四王傳に伝がある。
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○鮑昭妹令暉 鮑昭(ほうしょう)は、鮑照(414~466)。六朝時代の宋の詩人。東海(山東省郯城県)の人。字は明遠。最終の職名から鮑参軍と呼ばれている。唐代では則天武后の名の照を避け昭と書かれた。令暉(れいき)は、鮑照の妹の鮑令暉。南朝宋の女詩人。
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○八公山沙門譚濟
譚濟(たんさい)は、下文に「曇濟道人」とある。曇濟(どんさい)は、梁の釋慧皎の『高僧傳』に「時莊嚴復有曇濟曇宗。並以學業才力見重一時。濟述七宗論。」、唐の釋元康の『肇論疏』に「梁朝釋寶唱作續法論一百六十卷云、宋莊嚴寺釋曇濟作六家七宗論。論有六家、分成七宗。第一本無宗、第二本無異宗、第三即色宗、第四識含宗、第五幻化宗、第六心無宗、第七緣會宗。本有六家、第一家為二宗、故成七宗也。」とある。八公山は今の安徽省淮南市にあり、『水經注』に「八公山、山無樹木、惟童阜耳。山上有淮南王劉安廟、劉安是漢髙帝之孫厲王長子也、折節下士、篤好儒學、養方術之徒數十人、皆爲俊異焉。多神仙秘法鴻寶之道、忽有八公、皆鬚眉皓素、詣門希見、門者曰、吾王好長生、今先生無住衰之術、未敢相聞。八公咸變成童、王甚敬之。八士竝能鍊金化丹、出入無間、乃與安登山、薶金于地、白日昇天。餘藥在器、雞犬舐之者、俱得上昇。其所昇之處、踐石皆陷、人馬跡存焉。故山即以八公為目。」とある。沙門(しゃもん)は、出家者のこと。 |
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○齊(せい)
南北朝時代(439~589)の王朝。南朝の一。479年~502年。宋の軍人であった蕭道成(太祖高帝)が宋の蒼梧王を殺害し、479年自ら擁立した八代順帝より禅譲を受け斉朝を開いた。北朝の北斉や春秋時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。
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○世祖武帝(せそぶてい)
武帝(440~493)は、南朝斉の第二代皇帝(在位482~493)。姓は蕭、名は賾、字は宣遠、幼名は龍兒。廟号は世祖。太祖高帝の長男。『南齊書』本紀第三に武帝紀がある。
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○梁(りょう)
南北朝時代(439~589)の王朝。南朝の一。502年~557年。斉の宗族である蕭衍(高祖武帝)が、自ら擁立した斉の七代和帝より禅譲を受け梁朝を開いた。 |
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○劉廷尉(りゅうていい)
劉孝綽(りゅうこうしゃく)。480年~539年。名は冉。字は孝綽。彭城(江蘇省徐州)の人。幼時より聡明で神童と称された。天監初年、著作佐郎に任ぜられ、太子舎人に進み、尚書水部郎に転じた。昭明太子・蕭統に重んじられ、その文集の序文を作った。員外散騎常侍・廷尉卿に上った。才能を恃むこと多く免職され、官は秘書監に終わった。
『梁書』卷第三十三に伝がある。 廷尉は、廷尉卿で官名。 |
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○陶先生弘景 陶弘景(とうこうけい)。456年~536年。字は通明。丹陽秣陵(江蘇省寧県)の人。華陽隠居、晩年には華陽真逸と号した。10歳のときに葛洪の『神仙伝』を読み教に傾倒し、15歳にして『尋山志』を著したという。20歳の頃、南斉の高帝に招聘され左衛殿中将軍に任じられ諸王侍講となり、30歳の頃、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学び、36歳にて職を辞し句曲山(茅山)に道館を建て隠遁し、華陽隠居と号す。梁を建国した武帝肖衍は国家の大事には必ず意見を聞いたため「山中の宰相」と呼ばれる。著作は44部といわれるが、『本草経集注』『肘後百一方』の他は亡佚。
『梁書』處士列傳に伝がある。 |
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○皇朝(こうちょう)
現在の王朝。國朝、本朝。 |
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○徐英公勣 徐勣(じょせき)。592年~667年。字は懋功。曹州離狐(山東省)の人。初めは徐世勣、唐に帰順して李姓を賜り李世勣、唐の李世民が即位して唐の太祖となると世の字を避け李勣、のち孫の李敬業が則天武后に反乱し、徐姓に復す。隋末に群雄の李密に仕え、共に唐に帰順し、黎陽總管・英國公・右武侯大將軍・曹國公になり、李姓を賜う。李靖と共に突厥討伐に活躍。その後の高句麗遠征にも従う。太宗の晩年、畳州都督へと左遷させられたが高宗に宰相として迎えられる。高宗が則天武后を皇后に立てようとしたとき、群臣が反対する中「これ陛下の家事なり」と言って反対しなかった。『舊唐書』、『新唐書』に伝がある。
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○晉安王(しんあんおう)
梁の第2代皇帝(在位549~551)の簡文帝(かんぶんてい)。503年~551年。姓は蕭、名は綱、字は世讚、廟号は太宗。武帝の第3子。『文選』を撰した昭明太子の同母弟。天監2年(503)晋安王に封ぜられ、中大通3年(531)昭明太子の死により皇太子となり、武帝死後帝位につき簡文帝となる。『梁書』簡文帝紀に伝がある。
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○華佗(かだ)
後漢から三国時代の名医。~208年。字は元化。沛國譙(安徽省亳州市)の人。一名を旉。華陀とも書く。五禽の戯という導引法に優れ,麻沸散という麻酔で開腹手術をしたという。曹操の持病の頭痛を治療したが、曹操の侍医になるのを断り、妻の病気のためと偽って故郷に帰ったため、曹操の怒りを買い、火あぶりの刑に処せられた。
『後漢書』方術列傳、『三國志』魏書二十九方技傳に伝がある。 |
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○壺居士(ここじ)
未詳。南宋の鄭樵の『通志』氏族略に「壺氏。晉大夫邑也。因以為氏。其地今潞州黎城東壺口關是也。衛有壺黯。漢有諫議大夫壺遂。列仙傳有壺公。」(壺氏は、晋の大夫の邑なり。因りて以って氏と為す。其の地は今の潞州黎城の東の壺口関が是なり。衛に壺黯あり。漢に諫議大夫の壺遂あり。列仙伝に壺公あり。)とある。壺公は、晋の葛洪の『神仙傳』に「壺公者、不知其姓名。今世所有召軍符、召鬼神、治病、王府符、凡二十餘卷、皆出於壺公、故名為壺公符。汝南費長房為市椽時、忽見公從遠方來、入市賣藥、人莫識之。其賣藥、口不二價、治病皆愈。語賣藥者曰、服此藥、必吐出某物、某日當愈。皆如其言。得錢、日收數萬、而隨施與市道貧乏饑凍者、所留者甚少。常懸一空壺於坐上、日入之後、公輒轉足跳入壺中。」とある。 |
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○王微(おうび)
南朝宋の文人。415年~443年。字は景玄。琅邪臨沂(山東省臨沂市)の人。南朝宋の建国の功臣の王弘の甥。学問を好み、書画・音律・医法・陰陽・術数に通じ、文章をよくした。仕官することを嫌い、推薦されても辞退して自適の生活をおくった。死後、秘書監を贈られた。『隋書』經籍志に「宋秘書監、王微集、十卷。梁有錄、一卷。」とあるが已佚。『宋書』列傳第二十二に伝がある。
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○愍懷太子(びんかいたいし)
司馬遹(しばいつ)。278年~300年。字は熙祖。諡は愍懐太子。西晋の惠帝の長子。母は謝才人。父の即位と共に皇太子となるが、恵帝の皇后である継母の賈后が惠帝に代わり権力を牛耳る賈后を嫌い、賈后は司馬遹の即位後の自身の抹殺されることを恐れ、司馬遹を謀反の罪に陥れ、皇太子の位を追い庶人に落とし幽閉し、これを暗殺した。
『晉書』列傳第二十三・愍懷太子傳がある。 |
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○沈台真君(ちんだいしんくん)
沈台真(ちんだいしん)。397年~499年。姓は沈。諱は演之。字は台真。謚は貞侯。吳興武康(浙江省徳清県)の人。『宋書』列傳第二十三に伝がある。
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○傳詔李孟孫 傳詔(でんしょう)は、
『晉書』列傳第五十五・劉毅等傳に「無忌偽著傳詔服、稱敕使、城中無敢動者。」(無忌は偽りて伝詔の服を著け、敕使を称すに、城中に敢えて動く者なし。)とあり、詔勅を伝える者。李孟孫(りもうそん)は未詳。 |
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○齊景公 |
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