茶經

六之飲
七之事
八之出
九之略
十之圖

爾雅
方言
說文
釋名
廣雅
龍龕手鑑
玉篇

字彙
正字通
通雅
切韻
唐韻
廣韻
集韻
類篇

韻會

正韻

史記
前漢書
後漢書
三國志
晉書
宋書
南齊書
梁書
陳書
魏書
北齊書
周書
南史
北史
隋書
舊唐書
新唐書
易經
書經
詩經
周禮
儀禮
禮記
春秋左氏傳
春秋公羊傳
春秋穀梁傳
論語
孝經
孟子
荀子
老子
莊子
淮南子
呂氏春秋
晏子春秋
神農食經
凡將篇
晉中興書
搜神記
司隸教
神異記
七誨
食檄
食論
食忌
爾雅注
世說
續搜神記
晉四王起事
異荈
廣陵耆老傳
藝術傳
江氏家傳
宋錄
雜錄
後魏錄
桐君錄
坤元錄
括地圖
吳興記
夷陵圖經
永嘉圖經
淮陰圖經
茶陵圖經
本草
枕中方
孺子方
本草綱目
續名僧傳
通典

 
○爾雅 (じが)
中国最古の字書。秦(B.C.221~B.C.209)から前漢(B.C.202~7)にかけてまとめられたものと言われ、『前漢書』藝文志に「爾雅。三卷二十篇。」とある。古典中の字句を集め、その意味により、釋詁、釋言、釋訓、釋親、釋宮、釋器、釋樂、釋天、釋地、釋丘、釋山、釋水、釋草、釋木、釋蟲、釋魚、釋鳥、釋獸、釋畜の19の部門に分類され、釋詁・釋言・釋訓では動詞・形容詞・代名詞等を集め、それ以下は、その篇名に関する名詞を集めている。郭璞の序に「爾雅者蓋興中古隆於漢氏」(爾雅は蓋し中古に興り漢氏に隆んなり)とあり、疏に「中古者爾雅之作經莫言其人及時世但相傳云周公作之。」とあり、周公旦が作者に擬せられていた。『四庫全書總目』には「其成書在毛亨以後、大抵小學家綴緝舊文遞相增益、周公孔子皆依託之詞。」とあり、書物となったのは毛享以降、小学家が古い文を綴り合わせたもので、周公や孔子は後人が託したものであるとする。注釈には、晋の郭璞の注、北宋の邢昺疏の『爾雅注疏』(『十三経注疏』所収)、清の邵晋涵『爾雅正義』・郝懿行『爾雅義疏』などがある。
爾雅 中國哲學書電子化計劃 ● 爾雅註疏十一巻 東方學デジタル圖書館
○方言(ほうげん)
最古の方言字典。正式には『輶軒使者絶代語釋別國方言』(ゆうけんししゃぜつだいごしゃくべっこくほうげん)という。前漢(B.C.202~7)の揚雄(B.C.53~B.C.18)の撰といわれる。各地から長安の都に往来した人々の言葉を收集しており、共通語とともに解説している。『漢書』揚雄傳には本書について見えず、後漢の應劭の『風俗通義』序に「周秦常以歲八月遣輶軒之使、求異代方言、還奏籍之、藏於秘室。及嬴氏之亡、遺脫漏棄、無見者。蜀人嚴君平有千餘言、林閭翁孺才有梗概之法、 揚雄好之、天下孝廉衛卒交會、周章質問、以次注續、二十七年、爾乃治正、凡九千字、其所發明、猶未若爾雅之閎麗也、張竦以為懸諸日月不刊之書。」とある。注釈では、晋の郭璞の『方言注』、清の戴震の『方言疏證』などがある。
方言 中國哲學書電子化計劃

○說文(せつもん)
最古の部首別字典。正式には『說文解字』(せつもんかいじ)という。後漢(25~220)の和帝の永元12年(100)許慎(きょしん)が撰した。叙1篇、本文14篇。部首540、見出し字9353字、重文1163字。各見出し字を親字として篆書(小篆)をあげて、その意味の解釈をしている。甲骨文字は知られておらず、その字解には誤りもあるというが、長らく聖典とされてきた。注釈では、清の段玉裁の『説文解字注』30巻(段注説文解字)、桂馥の『説文解字義証』、朱駿声の『説文解字通訓定声』などがある。
說文解字 中國哲學書電子化計劃 ●重刊許氏説文解字五音韻譜十二卷 東方學デジタル圖書館
○釋名(しゃくみょう)
後漢(25~220)の劉熙の撰した字典。8卷。『爾雅』の分類法が流用され、釋天、釋地、釋山、釋水、釋丘、釋道、釋州國、釋形體、釋,姿容、釋長幼、釋親屬、釋言語、釋飲食、釋綵帛、釋首飾、釋衣服、釋宮室、釋床帳、釋書契、釋典藝、釋用器、釋樂器、釋兵、釋車、釋船、釋疾病、釋喪制の27篇に分類され、1502條が収められている。声訓と呼ばれる方法によって、その事物がその名称を得た字義(語源)を説明した書。注釈では、清の畢沅『釋名疏證』、それを王先謙が補った『釋名疏證補』がある。
釋名 中國哲學書電子化計劃 
○廣雅(こうが)
三国時代の魏(220~265) の張揖の撰した字典。『爾雅』の体裁にならい、書名の廣雅は「爾雅の拡大」の意。別名『博雅』というのは隋の煬帝の諱を避けたため。清の王念孫の『廣雅疏證』がある。
○玉篇(ぎょくへん)
南北朝時代の梁(502~557)の顧野王(519~581)の撰した部首別字典。部首542部、16,917字を収める。反切によって字音情報を記載、また多くの注釈・用例を施したという。唐代に孫強り字数を増補され、宋代に陳彭年らによって『大廣益會玉篇』(だいこうえきかいぎょくへん)として重修されたが、解釈部分などは逆に大きく削られて簡略化された。原本は一部が日本に残ったが、大部分は亡佚した。現存するのは『大廣益會玉篇』で543部、28,989字。
○切韻(せついん)
隋の文帝の仁寿元年(601年)陸法言の撰した韻書。韻目は193韻。唐代には科挙の作詩のために広く読まれたが、原本は早くに亡佚したが、内容は『廣韻』に残る。清朝考証学において隋唐の中古音を復元するための最も基本的な資料となり、中古音は切韻音系と呼ばれる。ただし、実際の復元作業は『廣韻』によってなされた。20世紀初頭、敦煌から唐代の『切韻』原本の残巻および増訂本が発見された。また北京の故宮から「刊謬補欠切韻」と題される唐代写本が発見されている。
○唐韻(とういん)
唐の孫愐が『切韻』を増補修訂して撰した韻書。全5巻、韻目は195韻。早くに亡佚したが、内容は『廣韻』に残る。
○龍龕手鑑(りゅうがんしゅかん)
遼の統和15年(997)幽州の僧、行均が撰した字典。4巻。240部首、26,430余字を収める。原名は龍龕手鏡(りゅうがんしゅきょう)であったが、宋で刊行される際に太祖の祖父趙鏡の諱を避けて「鑑」と改められた。、『説文解字』が篆書に従って部首を立てたのに対して、楷書体の字形によって部首を立てなおし、字形を字源から切り離して記号として扱い、さらに部首字をを平・上・去・入の四声に分け、各部に属する字もまた四声によって並べられている。また異体字を多く収め、毎字の下に正・俗・古・今および或体を詳しく列挙し、さらに音義および注释を施している。
○廣韻(こういん)
北宋の大中祥符元年(1008)陳彭年(961~1017)らが勅命を受け『唐韻』を増補修訂して撰した韻書。正式には『大宋重修廣韻』(だいそうちょうしゅうこういん)という。科挙の作詩の押韻基準をあらわした書。韻を平声57韻(上平声28韻、下平声29韻)、上声55韻、去声60韻、入声34韻の総計206韻に分類し、26,194字を収める。音韻符号である反切は失われた『切韻』の隋唐音をよく残しているとされ、中古音はこの書にもとづく。
○集韻(しゅういん)
北宋の景祐4年(1037)丁度(990-1053)らが勅命を受け『廣韻』を増補修訂して撰した官方韻書。上平・下平・上・去・入声各二巻の10巻。『廣韻』より27,331字多い53,525字を収め、収録字数の最も多い韻書として知られる。異体字や異読を多く収め、異体字字典としての価値を持っている。
○類篇(るいへん)
北宋の治平3年(1066)司馬光(1019~1086)らが勅命を受け『集韻』の配列を部首順に改めて撰した字典。45卷。544部、31,319字を収める。
○韻會(いんかい)
元の成宗大徳元年(1297)熊忠が黄公紹の『古今韻會』を要約して撰した韻書。30巻。107韻。正式には『古今韻會擧要』(ここんいんかいきょよう)という。『古今韻會』は亡佚。注に多数の典拠を引き、収録字に対してこれまでの字書や韻書の注をまとめてみることができるといった利便性を備えている。
○正韻(せいいん)
明の太祖の洪武8年(1375)楽韶鳳や宋濂など11人の学者が勅命を受け撰した官方韻書。16巻。韻部22部。正式には『洪武正韻』(こうぶせいいん)という。従来のものが明代の実際の音韻体系とはかけ離れていたため「中原雅音によって定められる」とある。
○字彙(じい)
明の万暦43年(1615)梅膺祚の撰した字典。首巻と子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の12巻と巻末の14巻。214部首33179字を収める。部首の配列順及びその部首に属する漢字の配列順をすべて画数順とした初めての字書。
○正字通(せいじつう)
明の張自烈(1597~1673)が『字彙』を増補修訂して撰した字典。12巻。214部 33,671字。張自烈の原稿を廖文英が買取り自分の名を冠して康煕10年(1671)刊行したとされる。『四庫全書總目』には「徵引繁蕪、頗多舛駁.、又喜排斥許愼說文、尤不免穿鑿附會、非善本也.」(徴する引は繁蕪にして、舛駁すること頗る多し。又た許慎の説文を排斥するを喜ぶ。尤も穿鑿附会を免れず、善い本に非らざるなり。)とある。
○通雅(つうが)
明の方以智(1611~1671)が撰した辞典。52巻。音義、讀書、小學大略、詩說、文章、天文、地理、身體、稱謂、姓名、官制、禮儀、樂曲、樂舞、器用、宮室、飲食、金石、算數、動植物、脈考等24門に分類した一種の百科全書。
○史記
前漢(B.C.206~8)の武帝の時に司馬遷(B.C.145~B.C.86?)により編纂された歴史書。正史の第一に数えられる。二十四史の一。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻の全130巻から成る紀伝体で、五帝の一人黄帝から前漢の武帝までについて書かれた。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれ、これが一般的な書名となった。
○漢書(かんじょ)
後漢(25~220)の章帝の時に班固(32~92)らにより編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の全100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『前漢書』ともいう。
○後漢書(ごかんじょ)
南北朝の宋(420~479)の范曄(398~445)らにより編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」10巻、「列伝」80巻、「志」30巻の全120巻からなる紀伝体で後漢について書かれた。范曄(398~446)が未完のまま卒したため、後に南朝梁(502~557)の劉昭が未完の『後漢書』に東晋(317~420)の司馬彪が書いた『続漢書』の「志」を合刻した。
○三國志(さんごくし)
西晋(265~316)の陳寿(233~297)により編纂された歴史書。二十四史の一。「魏国志」30巻(「本紀」4巻、「列伝」26巻)、「蜀国志」15巻、「呉国志」20巻の全65巻から成る紀伝体で、後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの三国時代について書かれた。個人の撰ではあるが、三国時代の歴史を扱う歴史書としては唯一、二十四史の一つに数えられた。
○晉書(しんじょ)
唐の貞観22年(648)に太宗の命で房玄齢(578~648)・李延寿らにより編纂された歴史書。二十四史の一。「帝紀」10巻、「載記」(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)30巻、「列伝」70巻、「志」20巻の全130巻から成る紀伝体で、晋王朝(西晋・東晋)について書かれた。
○宋書(そうじょ)
斉(479~502)の武帝に命で沈約(441~513)により編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」10巻、「列伝」60巻、「志」30巻の全100巻からなる紀伝体で、南朝の宋(420~479)について書かれた。
○南齊書(なんせいしょ)
梁(502~557)の蕭子顕(487~537)により編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」8巻、「志」11巻、「列伝」40巻の全59巻から成る紀伝体で、高帝建元元年(479)から和帝中興2年(520)の南朝の斉(479~502)について書かれた。原名は『齊書』である。北朝に関しては「魏虜伝」がある。
○梁書(りょうじょ)
唐の貞観3年(629)に姚思廉(557~637)により編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」6巻、「列伝」50巻の全56巻から成る紀伝体で、梁(502~557)について書かれた。
○陳書(ちんしょ)
唐の貞観10年(636)に姚思廉(557~637)により編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」6巻、「列伝」30巻の全36巻から成る紀伝体で、南北朝の陳(557~589)について書かれた。
○魏書(ぎしょ)
北斉(550~577)の魏収(506~572)により編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」14巻、「列伝」96巻、「志」20巻の全130巻からなる紀伝体で、北魏(386~534)について書かれた。。本紀と列伝は天保5年(554)、志は天保10年(559)に成立した。『北魏書』、『後魏書』ともいう。
○北齊書(ほくせいじょ)
唐の貞観10年(636)に李百薬(565~648)により編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」8巻、「列伝」42巻の全50巻からなる紀伝体で、南北朝の東魏(534~ 550)、北斉(550~577)について書かれた。李百薬の父の李徳林の撰した「齊史」に王邵の「北齊志」より得た資料を加え本書を完成させたもの。宋の時に蕭子顕の「南齊書」と区別するために北斉書と改称した。

○周書(しゅうじょ)
唐の貞観10年(636)に令狐徳棻(583~666)らにより編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」8巻、「列伝」42巻の全50巻からなる紀伝体で、南北朝の西魏(535~556)、北周(556~581)について書かれた。『北周書』(ほくしゅうじょ)、『後周書』(こうしゅうじょ)とも呼ぶ。
○南史(なんし)
唐の李延寿により編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」12巻、「列伝」88巻の全100巻で、南北朝(439~589)の北朝の北魏(386~534)・西魏(535~556)・東魏(534~550)・北斉(550~577)・北周(556~581)・隋(581~619)について書かれた。
○北史(ほくし)
唐の李延寿により編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」10巻、「列伝」70巻の全80巻で、南北朝(439~589)の南朝の宋(420~479)・斉(479~502)・梁(502~557)・陳(557~589)について書かれた。
○隋書(ずいしょ)
唐の太宗の勅を奉じ魏徴(580~643)と長孫無忌(~659)らにより編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」5巻、「志」30巻、「列伝」50巻の全85巻からなる紀伝体で、隋(581~619)について書かれた。編纂には、顔師古や孔穎達らが参加した。貞観10年(636)魏徴により「本紀」5巻、「列伝」50巻が成り、高宗の顕慶元年(656)長孫無忌により「志」30巻が成り編入された。
○舊唐書(くとうじょ)
五代十国の後晋(936~946)の出帝の時に劉昫(887~946)らによって編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」20巻、「列伝」150巻、「志」30巻の全200巻から成る紀伝体で、唐の成立(618)から滅亡まで(907)について書かれた。原名は『唐書』だったが『新唐書』が編纂されてから『旧唐書』と呼ばれるようになる。
○新唐書(しんとうじょ)
北宋の仁宗の嘉祐6年(1060)欧陽脩らによって編纂された歴史書。二十四史の一。「本紀」10巻、「志」50巻、「表」15巻、「列伝」150巻の全225巻から成る紀伝体で、唐代の正史。『旧唐書』が唐末五代の戦乱の影響で、武宗以後の皇帝は実録に欠落があるなど不備が大きかったため、宋代にその欠を補ったのもので『舊唐書』と区別するために『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。
○易經(えききょう)
占筮の書。五経の一。五経の筆頭に挙げられる。原名は『易』または『周易』であるが、儒教の経書に挙げられたため『易経』の名がある。六十四卦を説明する「経」とその解説の「十翼」で構成され、十翼は、卦に関する「彖伝」上下、爻に関する「象伝」上下、用語を説明する「繋辞伝」上下、乾坤二卦に関する「文言伝」、配列を説明する「序卦伝」、八卦を説明する「説卦伝」、対比を説明する「雑卦伝」からなる。
易經 中國哲學書電子化計劃
○書經(しょきょう)
堯舜から秦の穆公までの宣誓や訓告などの言辞録。五経の一。古名は「書」、漢代以後は「尚書」、宋以降は「書経」と呼ばれた。現行本は東晋の梅賾の「孔安國傳古文尚書」で、聖王の「虞書」、夏朝の「夏書」、殷朝の「商書」、周朝の「周書」の4章58篇からなるが、清の閻若璩が『古文尚書疏証』を著して大半は偽作であるとし「偽古文尚書」と呼ばれる。漢初には秦の伏生の伝えた「今文尚書」29編があり、漢の武帝のとき孔子の旧宅から「古文尚書」58編が発見されたが、いずれも今は諸書に断片が伝わるのみである。
尚書 中國哲學書電子化計劃 ●尚書註疏二十巻 東方學デジタル圖書館
○詩經(しきょう)
孔子(BC552~BC479)が、西周初期から春秋中期(BC11世紀~BC6世紀頃)の約3000の古詩から305編を選んだといわれる中国最古の詩集。五経の一つ。諸国の民謡を集めた「風」(ふう)、貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅」(が)、朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌」(しょう)の三部から成る。現行本は、毛亨・毛萇が伝えた『毛詩』(もうし)で、鄭玄が『毛詩』に注解を施した「毛傳鄭箋」が一般的である。
詩經 中國哲學書電子化計劃 ●毛詩註疏二十卷 東方學デジタル圖書館
○周禮(しゅうらい)
周(B.C.1070~B.C.722)の官制を記したとされる書。十三経の一。古くは『周官』とい、前漢の劉歆が始めて『周禮』と称した。周公旦の作と伝えるが、清の康有爲の『新學偽經考』が劉歆の偽作とする。天地春夏秋冬にかたどり、官職を天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官の六官に分け、計360の官職の細目規定を詳説。『隋書』に「而漢時有李氏得周官。周官蓋周公所制官政之法、上于河間獻王、獨闕冬官一篇。獻王購以千金不得、遂取考工記以補其處、合成六篇奏之。」とあり、秦の焚書の後、漢の武帝の時、李氏が『周官』を得て河間の獻王に献上、冬官一篇を欠いたので「考工記」を以てこれを補い、朝廷に献上したとする。現在、通行している『周禮』は『十三經注疏』に収められた後漢の鄭玄注、唐の賈公彦疏の『周禮注疏』である。
周禮 中國哲學書電子化計劃 ●周禮註疏四十二卷 東方學デジタル圖書館

○儀禮(ぎらい)
士大夫の式典の際の進退作法を記した書。十三経の一。前漢では『禮經』といい五経の一とされた。『儀禮』の名は晋代から始まる。周公旦制定や孔子編纂説がある。現存する17篇は前漢の高堂生が伝えた「士礼」(しらい)を主としたもので、この「今文儀礼」高堂生本を「古文儀礼」で校合したものという。現在、通行している『儀礼』は『十三經注疏』に収められた後漢の鄭玄注、唐の賈公彦疏の『儀禮注疏』である。
儀禮註疏十七卷 東方學デジタル圖書館
○禮記(らいき)
周から漢にかけての礼に関する記を戴聖が編纂したもの。五経の一。全49篇。『隋書』に「漢初、河間獻王又得仲尼弟子及後學者所記一百三十一篇獻之、時亦無傳之者。至劉向考校經籍、檢得一百三十篇、向因第而敘之。而又得明堂陰陽記三十三篇、孔子三朝記七篇、王史氏記二十一篇、樂記二十三篇、凡五種、合二百十四篇。戴德刪其煩重、合而記之、為八十五篇、謂之大戴記。而戴聖又刪大戴之書、為四十六篇、謂之小戴記。」とあり、戴徳が従来の記の中から85篇を選び取り『礼記』を作り、戴聖がさらに46篇を選び取り別に『礼記』を作った。戴徳と戴聖を区別するため、戴徳を大戴、戴聖を小戴と呼び、戴徳のものを『大戴礼記』(だたいらいき)、戴聖のものを『小戴礼記』と呼ぶ。後、後漢末の馬融が『小戴礼記』に3篇を付け加え、現在の全49篇になったという。現在通行している『礼記』は『十三經注疏』に収められた後漢の鄭玄注、唐の孔穎達疏の『礼記正義』や陳澔の注釈した『礼記集説』など多数ある。
禮記(小戴禮記) 中國哲學書電子化計劃 ●禮記註疏六十三卷 東方學デジタル圖書館
○春秋左氏傳(しゅんじゅうさしでん)
孔子の編纂と伝えられる春秋時代の史書「春秋經」の注釈書。略して『左傳』(さでん)という。十三経の一。『史記』十二諸侯年表序に「魯君子左丘明懼弟子人人異端、各安其意、失其真、故因孔子史記具論其語、成左氏春秋。」とあり、魯の左丘明の作とされる。『公羊傳』、『穀粱傳』とともに「春秋三傳」とされるが、他の伝が本文注釈を主とするのに対し、『左傳』は『春秋』に記されている内容の歴史的な事実を主に説明し、経文にない史事が多く述べられている。
春秋左傳 中國哲學書電子化計劃 ●春秋左傳註疏六十卷 東方學デジタル圖書館
○春秋公羊傳(しゅんじゅうくようでん)
孔子の編纂と伝えられる春秋時代の史書「春秋經」の注釈書。『公羊傳』、『公羊春秋』ともいう。十三経の一。孔子の弟子の子夏が春秋経を公羊高に伝え、子孫五代に口伝され、前漢の景帝の時、公羊壽が斉の胡母子都とともに竹簡にまとめ、董仲舒に伝えたという。『史記』儒林列傳に「言春秋於齊魯自胡毋生、於趙自董仲舒。」とある。
春秋公羊傳註疏二十八卷 東方學デジタル圖書館
○春秋穀梁傳(しゅんじゅうこくりょうでん)
孔子の編纂と伝えられる春秋時代の史書「春秋經」の注釈書。十三経の一。孔子の弟子の子夏の弟子にあたる穀梁赤の撰とされる。正、義の観念を重んじ、法律的規範の立場から経文の注釈をしたもの。「左氏伝」との思想内容の類似が見られるが、事実の集積による「左氏伝」とは異なり、理論で説明している。漢の武帝の子、戻太子が反乱を起こしたときに規範としていたためか、後世ほとんど読まれなかった。
春秋穀梁註疏二十卷 東方學デジタル圖書館
○論語(ろんご)
孔子と弟子の言行を孔子の死後に弟子達が記した書。四書の一。『前漢書』藝文志に「論語者、孔子應答弟子、時人、及弟子相與言、而接聞於夫子之語。當時弟子各有所記、夫子既卒、門人相與輯而論纂、故謂之論語。」とある。
論語 中國哲學書電子化計劃 ●論語註疏解經二十卷 東方學デジタル圖書館
○孝經
儒教の経書の一。孔子がその門弟の曾参(曾子:BC.505~BC.435)に孝道を述べたのを、曾参の門人が記録したものといわれる。十三経の一。孝を徳の根本とし、天子、諸侯、郷大夫、士、庶人のそれぞれの孝を説く。秦の始皇帝の焚書にあったが、顔芝が秘蔵し、漢の初めに顔貫、顔貞父子によって世に出たとされる「今文孝経」全18章と、前漢の景帝(在位 BC.157~BC.141)の末年に魯の共王が孔子の旧宅の壁から得たと称される「古文孝経」全22章がある。「今文孝経」は漢代通用の隷書体であったことから「今文」と呼ばれ、「古文孝経」は蝌蚪の古文字であったところから「古文孝経」といい、これは「今文」の18章のほかに閏門章があり、「今文」の庶人章を2章に分け、聖治章を3章に分け全22章となっていた。古文孝経は梁代に散佚し、隋代に再発見されたが、隋代のものは偽書の疑いが高いとされる。「今文孝経」に鄭玄が注した鄭注孝経と、「古文孝経」に孔安国が注した古文孝経伝があり、唐の玄宗皇帝が孝経が一定しないのを憂い「御注孝経」を作り、天下に詔し、家ごとに一本を蔵せしめ、さらに自ら手書きして石に刻し大学に立てた。
孝經 中國哲學書電子化計劃 ●孝經正義九卷 東方學デジタル圖書館
○孟子
戦国時代の思想家(BC372~BC289)。またその言行録で、四書五経の一、全七編。孟子は、姓は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)、魯(山東省)の鄒(すう)の人。学を孔子の孫の子思(しし)の門人に受け、孔子の思想を継承して諸国に遊説したが容れられず、退いて故郷の鄒で門人の教育にあたり、孔子の意を祖述して『孟子』七編を作る。南宋の朱子が四書のひとつとして経典となり、元代の至順元年(1330)亜聖公に封じられ、以後「亜聖」と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされ、後世には孔孟(こうもう)と並称される。
孟子 中國哲學書電子化計劃 ●孟子註疏解經十四卷 東方學デジタル圖書館
○荀子(じゅんし)
BC298頃~BC238頃。中国戦国時代末の趙の思想家。名は況。荀卿・孫卿ともいうが、「卿」は尊称とも、字ともいわれる。50歳にして始めて斉に遊学し、襄王に仕え、祭酒となるが、後に讒に遭い、斉を去り、楚の宰相春甲君に用いられ蘭陵の令となったが、春甲君の没後、任地に隠棲。その著「荀子」20巻において、性悪論を唱え、礼をもって人性を矯正すべしと説いた。荀子の著作はすでに生前から天下に行き渡り、前漢末には『孫卿』322篇があり、劉向がそれを整理して32篇に編定し『漢書』芸文志に『孫卿子』とあり、唐代までに12巻にされ伝えられた。唐の楊倞が篇を並べ替え書名を『荀子』と改め、注釈を加え20巻とし現在に至っている。孟子の「性善説」に対して荀子は「性悪説」を主張し、人間の本性は悪であるので、教育によって正しい方向へと導かねばならないとした。
荀子 中國哲學書電子化計劃

○老子(ろうし)
春秋時代(B.C.770~B.C.403)の老子が書いたと伝えられる書。正式には『老子道德經』という。『道徳経』ともいう。道教では『道德真經』ともいう。『史記』老子韓非列傳に「老子者、楚苦縣厲鄉曲仁裏人也、姓李氏、名耳、字摐、周守藏室之史也。」「老子脩道德、其學以自隱無名為務。居周久之、見周之衰、乃遂去。至關、關令尹喜曰、子將隱矣、彊為我著書。於是老子乃著書上下篇、言道德之意五千餘言而去、莫知其所終。」とあり、老子は周の守蔵室の史であったが、周の衰えを見て立ち去り、関まで来たとき関令の令尹喜の求めに応じ上下二篇の書を著して去り、その行き先は誰も知らなかったという。
道德經 中國哲學書電子化計劃

○莊子(そうじ)
戦国時代(B.C.403~B.C.221)の莊周が書いたと伝えられる書。現行本は内篇七篇・外篇十五篇・雑篇十一篇の三十三篇。『史記』老子韓非列傳に「莊子者、蒙人也、名周。周嘗為蒙漆園吏、與梁惠王、齊宣王同時。其學無所不闚、然其要本歸於老子之言。故其著書十餘萬言、大抵率寓言也。作漁父、盜蹠、胠篋、以詆訿孔子之徒、以明老子之術。畏累虛、亢桑子之屬、皆空語無事實。然善屬書離辭、指事類情、用剽剝儒、墨、雖當世宿學不能自解免也。其言洸洋自恣以適己、故自王公大人不能器之。」とあり、『前漢書』藝文志に「莊子、五十二篇。名周、宋人。」とあり、五十二篇本を晋の郭象が削り三十三篇とし注を施したとされる。
莊子 中國哲學書電子化計劃
○淮南子(えなんじ)
前漢の武帝の頃、淮南王劉安(BC179~BC122)が招いた客人たちにより執筆編纂された書物。「漢書・芸文志」には、「淮南内二十一篇、外三十三篇」とあるが、現存するものは二十一篇。道家思想を基調として諸子百家の説を網羅したもので、幅広く雑多な内容で、天文・暦数・地理・習俗・神話・伝説・本草等に及び、雑家の書に分類されている。また中国上代の思想・論理・信仰・民俗に関して、その資料的価値も高い。「淮南子」の注本は、昔から高誘の注本が最もよく知られている。
淮南子 中國哲學書電子化計劃
○呂氏春秋(りょししゅんじゅう)
中国の戦国時代末期、秦の相国呂不韋(りょふい)が、招いた食客に命じ、諸子百家の思想をはじめ天文・地理などの学説や伝説に至るまで網羅編纂し、秦の始皇8年(BC239)に完成した書物。『史記』呂不韋列傳に「當是時、魏有信陵君、楚有春申君、趙有平原君、齊有孟嘗君、皆下士喜賓客以相傾。呂不韋以秦之彊、羞不如、亦招致士、厚遇之、至食客三千人。是時諸侯多辯士、如荀卿之徒、著書布天下。呂不韋乃使其客人人著所聞、集論以為八覽、六論、十二紀、二十餘萬言。以為備天地萬物古今之事、號曰呂氏春秋。布咸陽市門、懸千金其上、延諸侯游士賓客。有能增損一字者予千金。」(是の時に当たり、魏に信陵君あり、楚に春申君あり、趙に平原君あり、斉に孟嘗君あり。皆士に下り、賓客を喜びて以って、相傾く。呂不韋、秦の彊を以って、如かざるを羞じ、亦た士を招致す。厚く之を遇し、食客三千人に至る。是の時、諸侯に弁士多く、荀卿の徒のごとき、書を著して天下に布く。呂不韋、乃ち其の客をして人々の聞く所を著せしめ、論を集めて以て八覧、六論、十二紀と為す、二十余万言。以って天地万物古今の事を備うと為し、号して呂氏春秋と曰う。咸陽の市門に布き、千金を其の上に懸け、諸侯の游士賓客を延く。能く一字を増損する者有らば、千金を予えん。)とある。
呂氏春秋 中國哲學書電子化計劃
○晏子春秋(あんえいしゅんじゅう)
春秋時代の斉の宰相である晏嬰(~B.C.500)の言行録。晏嬰は、『史記』管晏列傳に「晏平仲嬰者、萊之夷維人也。事齊靈公、莊公、景公、以節儉力行重於齊。既相齊、食不重肉、妾不衣帛。其在朝、君語及之、即危言、語不及之、即危行。國有道、即順命、無道、即衡命。以此三世顯名於諸侯。」(晏平仲嬰は、莱の夷維の人なり。斉の霊公・荘公・景公に事へ、節倹力行を以って斉に重んぜらる。既に斉に相たり、食に肉を重ねず、妾に帛を衣せず。其の朝に在るや、君の語之に及べば、即ち言を危くし、語之に及ばざれば即ち行いを危くす。国に道有らば即ち命に順い、道無ければ即ち命を衡る。此れを以て三世名を諸侯に顕す。)とある。
晏子春秋 中國哲學書電子化計劃
○神農食經(しんのうしょくきょう)
未詳。『本草綱目』果部第三十二卷果之四「茗」の「集解」に「神農食經曰、荼茗生益州及山陵道旁。淩冬不死、三月三日采乾。」(神農食経曰く、荼茗は益州及び山陵の道旁に生じ。冬を凌いで死れず、三月三日采んで乾かず。)とあり、神農食經の名が見える。
○凡將篇(ぼんしょうへん)
前漢書』藝文志に「凡將。一篇。司馬相如作。」とあり、その後文に「武帝時司馬相如作凡將篇、無複字。」(武帝の時、司馬相如は凡將篇を作り、複字なし。)とあり、重複した字がないところから「千文字」のようなもののようである。
○晉中興書(しんちゅうこうしょ)
南朝宋の何法盛(かほうせい)により編纂された歴史書。78巻。東晋(317~420)について書かれた。散佚して伝わらない。『隋書』經籍志二に「晉中興書。七十八卷。起東晉。宋湘東太守何法盛撰。」とある。
○搜神記(そうしんき)
東晋の干寶(かんぽう)により編纂された古今の霊異についての説話集。
○司隸教(しれいきょう)
司隸(しれい)は、『晉書』職官志に「司隸校尉、案漢武初置十三州、刺史各一人、又置司隸校尉、察三輔、三河、弘農七郡、曆漢東京及魏晉、其官不替。屬官有功曹、都官從事、諸曹從事、部郡從事、主簿、錄事、門下書佐、省事、記室書佐、諸曹書佐守從事、武猛從事等員、凡吏一百人、卒三十二人。及渡江、乃罷司隸校尉官、其職乃揚州刺史也。」とあり、司隸校尉のことで、首都圏数郡の風紀を取り締まることを職務とする行政監察官。教(きょう)は、『說文』に「上所施下所效也。」(上の施す所を下の効う所なり)、『蔡邕獨斷』に「諸侯言曰教。」(諸侯の言を教と曰う。)、『正字通』に「諭告之詞、其義與令同也。」(諭告の詞、其の義は令と同じなり。)とある。
○神異記(しんいき)
西晋の王浮(おうふ)により編纂された古今の霊異についての説話集。
○七誨(しちかい)
誨(かい)は、『說文』に「曉敎也。」、『玉篇』に「敎示也。」、『廣韻』に「敎訓也。」とあり、七誨は七つの教え。『太平御覽』590輯の傅玄の「七謨序」に「有陳王七啟、王氏七釋、楊氏七訓、劉氏七華、從父侍中七誨」 とあり、從父侍中は傅巽のこと。

○食檄(しょくげき)
未詳。 檄(ゲキ)は、『說文』に「二尺書」、段注に「以木簡為書、長尺二寸。謂之檄、以徴召也。」(木簡を以って書を為す、長さは尺二寸。之を檄と謂う、以って徴召するなり。)、『韻會』に「陳彼之惡、說此之德、曉諭百姓之書也。」(彼の悪を陳べ、此の徳を説き、百姓を曉諭するの書なり。)とあり、食についての諭し、飲食養生訓のようなものか。

○食論(しょくろん)
未詳。
○食忌(しょくき)
未詳。
○爾雅注(じがちゅう)
晋の郭璞による『爾雅』の注釈。『爾雅』は、郭璞の注、北宋の邢昺疏の『爾雅注疏』が『十三経注疏』に収められており、一般的なテキストとなっている。
○世說(せせつ)
世說新語(せせつしんご)。南朝宋の劉義慶(りゅうぎけい)が編纂した後漢から東晋までの名士の逸話を収めた小説集。もとは単に『世説』と称したようで、『南史』宗室傳の劉義慶傳に「所著世說十卷」、『隋書』經籍志に「世說。八卷。宋臨川王劉義慶撰。」、『舊唐書』經籍志に「世說。八卷。劉義慶撰。」、『新唐書』藝文志に「劉義慶。世說。八卷。」とあり『世説』に作り、『宋史』藝文志に「劉義慶。世說新語。三卷。」とあり、遅くとも宋代までには『世説新語』と呼ばれるようになったようである。
○續搜神記(ぞくそうしんき)
東晋の陶潜(とうせん)の撰とされる。10巻。『捜神記』を後補するもの。搜神後記(そうじんこうき)ともいう。『隋書』經籍志に「搜神後記。十卷。陶潛撰。」とある。
○晉四王起事(しんしおうじき)
東晋の盧綝(ろりん)の撰。『隋書』經籍志に「晉四王起事。四卷。晉廷尉盧綝撰。」とある。原書は已佚。
○異荈(いえん)
異苑。南朝宋の劉敬叔が編纂した怪談集。『隋書』經籍志に「異苑。十卷。宋給事劉敬叔撰。」とある。
○廣陵耆老傳(こうりょうきろうでん)
未詳。
○藝術傳(げいじゅつでん)
晉書』藝術傳のこと。『晉書』藝術傳序に「詳觀眾術、抑惟小道、棄之如或可惜、存之又恐不經」「今錄其推步尤精、伎能可紀者、以為藝術傳」とある。
○江氏家傳(こうしかでん)
隋書』經籍志に「江氏家傳。七卷。江祚等撰。」、『舊唐書』經籍志に「江氏家傳。七卷。江統撰。」、『新唐書』藝文志に「江氏家傳。七卷。江饒。」とあり、その撰者が江祚・江統・江饒と異なる。江氏の家の伝を書き継いだものか。已佚。
○宋錄(そうろく)
未詳。
○雜錄
未詳。
○後魏錄
未詳。
○桐君錄
全名『桐君采藥錄』という。已佚。陶弘景(502~557)の『本草經集注』序に「又有桐君采藥錄、說其華葉形色。」、『隋書』に「桐君藥錄。三卷。」、 『舊唐書』經籍志に「桐君藥錄。三卷。桐君撰。」、李時珍の『本草綱目』に「桐君采藥錄。時珍曰、桐君、黃帝時臣也。書凡二卷。紀其花葉形色、今已不傳。后人又有四時采藥、太常采藥時月等書。」とある。康熙22年刊本『浙江通志』に「桐君住在縣東山隈桐樹下、其他支柯偃蓋、蔭蔽數畝、遠望如廬舍、人問其姓名、則以桐示之、因名其人為桐君。」、『古今醫統』に「少師桐君、為黃帝臣、識草木金石性味、定三品藥物、以為君臣佐使。撰藥性四卷、及採藥錄、紀其花葉形色、論其相須相反、及立方處治寒熱之宜、至今傳之不泯。」とある。
○坤元錄(こんげんろく)
唐の魏王泰が編纂した地誌書。『宋史』藝文志に「魏王泰。坤元錄。十卷。」とある。已佚。
○括地圖(かつちず)
未詳。
○吳興記(ごこうき)
南朝宋の山謙之が編纂した地誌書。『隋書』經籍志に 「吳興記。三卷。山謙之撰。」とある。已佚。
○夷陵圖經(いりょうずけい)
未詳。 夷陵は、今の湖北省宜昌地市。
○永嘉圖經(えいかずけい)
未詳。 永嘉は、今の浙江省温州市。
○淮陰圖經(わいいんずけい)
未詳。 淮陰は、今の江蘇省淮安市。
○茶陵圖經(ちゃりょうずけい)
未詳。 茶陵は、湖南省茶陵県。
○本草(ほんぞう)
『新修本草』。唐の高宗の勅で顕慶4年(659)に上奏された本草書。七巻本『本草集注』に李勣・蘇敬らが増補加注した朱墨雑著の『新修』20巻と、新たに編纂した『薬図』25巻・『図経』7巻。「茗。苦〓(木余)。茗、味甘苦、微寒、無毒、主瘻瘡、利小便、去淡〓渇、令人少睡。秋採之苦〓(木余)、主下氣消宿食。作飲加茱茰葱薑芽。案、爾雅釋木云、檟、苦〓(木余)。春秋採之。榛音一名荈。出山南全州梁州漢中山谷新附。」とあり、茶の字を「〓(木余)」に作っており、茶経にいう「從木、當作〓(木茶)、其字出本草。」に合わない。
○枕中方(ちんちゅうほう)
唐の孫思邈(そんしばく)の著した医薬書。『新唐書』藝文志に「孫思邈、千金方、三十卷。又、千金髓方、二十卷。千金翼方、三十卷。神枕方、一卷。醫家要妙、五卷。楊太僕醫方、一卷失名。天授二年上。」とあり、『神枕方』のことともいう。 孫思邈 (581~682) は、唐初の医薬家で『新唐書』隱逸列傳に伝がある。

○孺子方(じゅしほう)
未詳。 孺(ジュ)は『說文』に「乳子也。」、方は『玉篇』に「治病之藥方也。」、『正字通』に「方、技醫方。」とあり、小児科の医薬書か。

○本草綱目(ほんぞうこうもく)
明の李時珍(1518~1593)が撰した本草書。万暦6年(1578)完稿した後も、没するまで増補・改訂を続け、友人の王世貞の序を得て万暦18年(1590)から刊行し、万暦24年(1596)に上梓された。全52巻。収録薬種は1892種(374種は新収)、図版1109枚、処方11096種(うち8000余は李時珍自身が収集、確定したもの)にのぼる。薬物ごとに釈名(名称の考証)・集解(産地の注解)・正誤(それまでの文献における間違いを訂正)・修冶(製造方法)・気味・主治・発明・処方(民間に流布される処方を収集)などの項目が立てられている。初版は出版地に因んで「金陵本」 (金陵は今の南京) と呼ばれる。
本草綱目 国立国会図書館
○續名僧傳(ぞくめいそうでん)
未詳。『名僧傳』は、唐の道宣の『續高僧傳』に「昔梁沙門金陵釋寶唱撰名僧傳。會稽釋惠皎撰高僧傳。」、「初唱天監九年先疾復動。便發二願。遍尋經論使無遺失。搜括列代僧錄創區別之。撰為部帙。號曰名僧傳三十一卷。至十三年。始就條列。」とあり、梁の釋寶唱の撰で、天監9年(510)に発願し、同13年(514)にほぼかたちを成したというが、散佚して伝わらず、『名僧傳指示抄』一卷、『名僧傳要文抄』一卷に抄録がある。
○通典(つうてん)
唐の徳宗の貞元17年(801)に杜佑(735~812)が編纂した政書。全200巻。黄帝から唐の玄宗までの法令制度を「食貨典」「選舉典」「職官典」「禮典」「樂典」「兵典」「刑法典」「州郡典」「邊防典」の九つの部門に分けて集録している。