茶經

六之飲
七之事
八之出
九之略
十之圖

七之事
七 茶の事跡
三皇炎帝神農氏 三皇では、炎帝の神農氏。
魯周公旦齊相晏嬰 周では、魯の周公旦、斉の相の晏嬰
仙人丹丘之子黃山君司馬文園令相如楊執戟雄 漢では、仙人の丹丘之子・黃山君。文園令の司馬相如・執戟の楊雄。
歸命侯韋太傅弘嗣 呉では、帰命侯、太傅の韋弘嗣。
惠帝劉司空琨琨兄子兗州刺史演張黃門孟陽傅司隸咸江洗馬統孫參軍楚左記室太沖陸吳興納納兄子會稽內史俶謝冠軍安石郭弘農璞桓揚州溫杜舍人毓武康小山寺釋法瑤沛國夏侯愷余姚虞洪北地傅巽丹陽弘君舉樂安任育長宣城秦精敦煌單道開剡縣陳務妻廣陵老姥河內山謙之 晋では、恵帝、司空の劉琨、琨の兄の子の兗州刺史の演、黃門の張孟陽、司隸の傅咸、洗馬の江統、参軍の孫楚、記室の左太沖、呉興の陸納、納の兄の子の会稽內史の俶、冠軍の謝安石、弘農太守の郭璞、揚州牧の桓溫、舍人の杜毓、武康の小山寺の釈法瑤、沛国の夏侯愷、余姚の虞洪、北地の傅巽、丹陽の弘君挙、楽安の任育長、宣城の秦精、敦煌の単道開、剡県の陳務の妻、広陵の老姥、河內の山謙之。
后魏琅邪王肅 后魏では、琅邪の王粛。
宋安王子鸞鸞弟豫章王子尚鮑昭妹令暉八公山沙門譚濟 宋では、宋安王の子鸞、鸞の弟の予章王の子尚、鮑昭の妹の令暉、八公山の沙門の譚濟。
世祖武帝 斉では、世祖武帝。
劉廷尉陶先生弘景 梁では、廷尉の劉、陶弘景先生。
皇朝徐英公勣 皇朝では、英公の徐勣。
神農食經。荼茗久服、令人有力悅志。 『神農食経』に「荼茗を久しく服せば、人をして力あらしめ志を悦ばしむ。」
周公 爾雅、苦荼。周公の『爾雅』に「檟は、苦荼と。」
廣雅云。荊巴間采葉作餅、葉老者、餅成以米膏出之。欲煮茗飲、先炙令赤色、搗末、置瓷器中、以湯澆覆之、用蔥、薑、桔子 芼之。其飲醒酒、令人不眠。『広雅』に云う。「荊・巴の間に葉を採り餅と作す、葉の老は、餅に成すに米膏を以って之を出ず。茗を煮て飲まんと欲するに、先ず炙りて赤色にしむ、末に搗き、瓷器の中に置き、湯を以って澆ぎ之を覆う、蔥・薑・桔子の之を芼ぜて用う。其の飲すれば酒を醒まし、人を眠らざしむ。」と。
晏子春秋齊景公時、食脫粟之飯、炙三戈、五卵 茗菜而已。
『晏子春秋』に「嬰、斉景公に相たりし時、脱粟の飯を食し、三戈、五卵を炙り、茗菜のみ。」と。
司馬相如 凡將篇。鳥喙、桔梗、芫華、款冬、貝母、木檗、蔞苓、■草、芍藥、■桂、漏蘆、蜚廉、萑菌、荈詫、白斂、白芷、菖蒲、芒消、莞椒、茱萸。司馬相如の『凡将篇』に「鳥喙、桔梗、芫華、款冬、貝母、木檗、蔞苓、■草、芍藥、■桂、漏蘆、蜚廉、萑菌、荈詫、白斂、白芷、菖蒲、芒消、莞椒、茱萸。」と。
方言。蜀西南人謂荼曰蔎。『方言』に「蜀の西南の人、荼を謂いて蔎と曰う。」と。
吳志 韋曜傳。孫皓每饗宴、坐席無不悉以七勝爲限、雖不盡入口、皆澆灌取盡。飲酒不過二升、初禮異、密賜茶荈以代酒。『呉志』の韋曜伝に「孫皓は、饗宴每に、席に坐せば悉く七升を限と為さざる無し、尽とく口に入ざると雖も、皆澆灌し取り尽す。曜は酒を飲むに二升を過ぎず、皓は初め礼を異なりて、密かに茶荈を賜り以って酒に代う。」と。
晉中興書陸納吳興太守時、衛將軍 謝安嘗欲詣、(晉書吏部尚書。)納兄子俶無所備、不敢問之、乃私蓄十數人饌。既至、所設唯茶果而已。遂陳盛饌、珍羞必具。及去、四十、云汝既不能光益叔、奈何穢吾素業。『晋中興書』に「陸納が呉興太守と為る時、衛将軍の謝安嘗て納を詣せんと欲す、(『晋書』以って納は吏部尚書と為る。)納の兄の子の俶、納に備える所なきを怪しみ、敢えて之を問わず、乃ち私かに十数人の饌を蓄う。安の既に至り、設ける所は唯だ茶果のみ。俶は遂に盛饌を陳べ、珍羞必ず具うる。及ち安去りて、納の俶を杖つこと四十、云く汝既に叔に光益あたはず、奈何して吾が素業を穢さん。」と。
晉書桓溫揚州牧、性儉、每宴飲、唯下七奠柈茶果而已。『晋書』に「桓温は揚州の牧と為る、性は倹、宴飲毎に、唯だ七奠柈に茶果を下すのみ。」と。
搜神記夏侯愷因疾死、宗人字苟奴、察見鬼神、見愷來收馬、並病其妻。著平上幘、單衣、入坐生時西壁大床、就人覓茶飲。『捜神記』に「夏侯愷、疾に因りて死す、宗人字は苟奴、鬼神を察見す、愷来りて馬を収め、並びに其の妻病むを見る。平上幘・単衣を著け、入りて生時の西壁の大床に坐し、人に就いて茶飲を覓む。」と。
劉琨與兄子南兗州史演書云。前得安州幹薑一斤、桂一斤、黃岑一斤、皆所須也。吾體中潰(潰、當作憒。)悶、常仰真茶、汝可致之。劉琨の「兄の子の南兗州史の演に与うる書」に云う。「前の安州の幹薑一斤、桂一斤、黃岑一斤を得る、皆な須いる所なり。吾れ体中潰(潰は、当に憒に作る。)悶し、常に真茶を仰む、汝之を致すべし。」と。
傅咸 司隸教曰。聞南方有蜀嫗作茶粥賣、爲廉事打破其器具、後又賣餅於市、而禁茶粥以因蜀嫗何哉。傅咸の「司隸教」に曰く。「聞く、南方に蜀の嫗あり、茶粥を作りて売る、廉事の為すに其の器具を打破す、後ち又た市に於いて餅を売る、茶粥を禁じて以って蜀の嫗を因らしむるは何ぞや。」と。
神異記余姚人虞洪、入山采茗、遇一道士、牽三青牛、引洪至瀑布山、曰、予、丹丘子也。聞子善具飲、常思見惠。山中有大茗、可以相給、祈子他日有甌犧之餘、乞相遺也。因立奠祀。後常令家人入山、獲大茗焉。 『神異記』に「余姚の人の虞洪、山に入り茗を採り、一道士に遇う、三の青牛を牽き、洪を引いて瀑布山に至り、曰く、予は、丹丘子なり。聞く子は善く飲を具すと、常に惠まれんことを思う。山中に大茗あり、以って相給うべし、子に祈す、他日、甌犧之余り有らば、相遺わすを乞うなり。因りて奠祀を立つ。後に常に家人に入山せしむに、大茗を獲る。」と。
左思嬌女詩。吾家有嬌女皎皎頗白皙小字爲紈素、口齒自清曆。有姊字蕙芳、眉目燦如畫。馳騖翔園林、果下皆生摘。貪華風雨中、倏忽數百適。心爲荼荈劇、吹噓對鼎〓(金曆)左思の「嬌女詩」に「吾が家に嬌女ありて、皎皎として頗る白皙なり。小字は紈素と為し、口の歯は自のずと清曆なり。姉あり字は恵芳、眉目は燦として画けるが如し。馳せ騖びて園林を翔け、果の下で皆な生で摘ぐ。華を貪る風雨の中、倏忽にして数百適く。心は荼荈の為に劇だしく,吹嘘して鼎〓(金曆)に対す。」と。
張孟陽成都樓詩云。借問揚子舍想見長卿廬程卓累千金驕侈擬五侯。門有連騎客、翠帶腰吳鈎鼎食隨時進百和妙且殊披林采秋桔臨江釣春魚黑子過龍醢吳饌逾蟹蝑芳荼冠六清溢味播九區。人生苟安樂、茲土聊可娛。

張孟陽の「成都楼に登る」詩に云う。「借問す揚子の舍、想見す長卿の廬。程卓は千金を累ね、驕侈は五侯に擬す。門に連騎の客あり、翠帶に呉鈎を腰にす。鼎食は時に随い進み、百和は妙にして且つ殊る。林を披き秋桔を採り、江に臨み春魚を釣る。黒子は龍醢より過ぎ、呉饌は蟹蝑より逾る。芳荼は六清に冠たり、溢味は九区に播わる。人生苟くも安楽たらば、茲の土は聊か娯む可し。」と。

傅巽 七誨。蒲桃、宛柰、齊柿、燕栗、恒陽黃梨、巫山朱桔、南中荼子、西極石蜜。傅巽の「七誨」に「蒲桃、宛柰、斉柿、燕栗、恒陽の黃梨、巫山の朱桔、南中の荼子、西極の石蜜。」と。
弘君舉 食檄寒溫既畢,應下霜華之茗三爵而終、應下諸蔗、木瓜、元李、楊梅、五味、橄欖、懸鈎、葵羹各一杯。弘君挙の『食檄』に「寒温の既に畢りて応に霜華の茗を下すべし。三爵にして終る、応に諸蔗、木瓜、元李、楊梅、五味、橄欖、懸鈎、葵羹各一杯を下すべし。」と。
孫楚歌。茱萸出芳樹顛、鯉魚出洛水泉。白鹽出河東、美豉出魯淵。姜桂茶荈出巴蜀、椒桔木蘭出高。蓼蘇出溝渠、精稗出中田。孫楚の歌に「茱萸は芳樹の顛に出で、鯉魚は洛水の泉に出づ。白塩は河東に出で、美豉は魯淵に出づ。姜と桂と茶荈は巴蜀に出で、椒と桔と木蘭は高に出づ。蓼と蘇は溝渠に出で、精稗は中田に出づ。」と。
華佗 食論。苦荼久食益意思。
華佗の『食論』に「苦荼は久しく食せば意思を益す。」と。
壺居士 食忌。苦荼久食、羽化。與韭同食、令人體重。
壺居士の『食忌』に「苦荼は久しく食せば、羽化し。韭と同食せば、人をして体を重くせしむ。」と。
郭璞 爾雅注云。樹小似梔子、冬生葉、可煮羹飲。今呼早取爲荼、晚取爲茗、或一曰荈、蜀人名之苦荼。郭璞の『爾雅注』に云う。「樹は小さく梔子に似て、冬に葉を生じ、煮て羹として飲む可し。今早く取るを呼びて荼と為し、晚く取るを茗と為す、或いは一に荈と曰う、蜀の人之を苦荼と名づく。」と。
世說任瞻、字育長、少時有令名、自過江失志。既下飲、問人云、此爲荼、爲茗、覺人有怪色、乃自申明云、向問飲爲熱爲冷耳。『世説』に「任瞻、字は育長、少時に令名あり、江を過ぎて自り志を失う。既に下飲し、人に問いて云う、此れ荼と為すか、茗と為すか、人に怪しむ色あるを覚り、乃ち自ら申ねて明らかにして云う、向に飲の熱か冷かを問うのみ。」と。
續搜神記武帝時、宣城市人秦精、常入武昌山采茗、遇一毛人、長丈餘、引精至山下、示以叢茗而去。俄而複還、乃探懷中桔以遺精。精怖、負茗而歸。

『続搜神記』に「晋の武帝の時、宣城市の人の秦精、常に武昌山に入り茗を採る、一毛人に遇う、長は丈余、精を引き山下に至り、茗の叢がるを以って示して去る。俄に複び還り、乃ち懷中の桔を探り以って精に遺す。精は怖れ、茗を負うて帰る。」と。

晉四王起事惠帝 蒙塵、還洛陽、黃門瓦盂盛茶上至尊。『晋四王起事』に「恵帝は蒙塵し、洛陽に還る、黃門は瓦盂を以って茶を盛り至尊に上つる。」と。
異荈剡縣陳務妻、少與二子寡居、好飲茶茗。以宅中有古塚、每飲、輒先祀之。兒子患之、曰、古塚何知。徒以勞意、欲掘去之、母苦禁而止。其夜夢一人云、吾止此塚三百餘年、卿二子恒欲見毀、賴相保護、又享吾佳茗、雖泉壤朽骨、豈忘翳桑之報、及曉、於庭中獲錢十萬、似久埋者、但貫新耳。母告二子慚之、從是禱饋愈甚。『異荈』に「剡縣の陳務の妻、少くして二子と寡居す、茶茗を飲むを好み。宅の中に古塚あるを以って、飲む毎に、輒ち先ず之に祀う。兒子は之を患み、曰く、古い塚の何を知らん。徒らに以って意を労するのみと、之を掘りて去らんと欲す、母の苦く禁じて止む。其の夜の夢に一人云う、吾れ此の塚に三百余年止まる、卿の二子の恒に毀さんと欲するを見る、相の保護に頼み、又た吾に佳茗を享す、泉壤の朽骨と雖も、豈に翳桑の報を忘れんや、曉に及び、庭の中に銭十万を獲る、久しく埋れる者に似るも、但だ貫のみ新なり。母の二子に告ぐに之を慚じ、是れより禱饋の愈よ甚し。」と。
廣陵耆老傳元帝時、有老嫗每旦獨提一器茗、往市鬻之。市人競買、自旦至夕、其器不減。所得錢散路旁孤貧乞人。人或異之。州法曹縶之獄中。至夜老嫗執所鬻茗器從獄牖中飛出『広陵耆老伝』に「晋の元帝の時、老嫗ありて每旦独り一器の茗を提げ、市に往き之を鬻ぐ。市人競いて買い、旦より夕に至るに、其の器の減らざるなり。得る所の銭を路旁の孤や貧しき乞人に散ず。人或いは之を異とす。州の法曹は之を獄中に繋ぐ。夜に至り老嫗は鬻ぐ所の茗器を執りて獄の牖中より飛び出ず。」と。
藝術傳。敦煌人單道開、不畏寒暑、常服小石子、所服藥有松、桂、蜜之氣、所飲荼蘇而已。『芸術伝』に「敦煌の人の単道開は寒暑を畏れず、常に小石子を服す、服す所の薬は松、桂、蜜の気あり、飲む所は荼と蘇のみ。」と。
釋道該說 續名僧傳 釋法瑤、姓楊氏、河東人。元嘉中過江、遇沈台真君武康小山寺、年垂懸車。(懸車、喻日入之候、指重老時也。淮南子曰、日至悲泉、愛息其馬、亦此意。)飯所飲荼。永明中、敕吳興禮致上京、年七十九。釈道該説の『続名僧伝』に「宋の釈法瑤、姓は楊氏、河東の人なり。元嘉中に江を過り、武康の小山寺に沈台真君に遇う、年は懸車に垂んとす。(懸車は、日入の候に喻う、重老の時を指すなり。淮南子曰く、日の悲泉に至らば、其の馬を愛息す、亦た此の意なり。)飯に飲む所は荼。永明中に、呉興に勅して礼を致し京に上らす、年は七十九。」と。
江氏家傳。江統、字應、遷愍懷太子 洗馬、嘗上疏諫云、今西園賣、面、藍子、菜、茶之屬、虧敗國體。宋の『江氏家伝』に「江統、字は応、愍懷太子の洗馬に遷る、嘗て上疏し諫めて云う、今、西園にて醯、面、藍子、菜、茶の属を売る、国体を虧敗す。」と。
宋錄新安王子鸞豫章王子尚、詣曇濟道人于八公山。道人設荼茗、子尚味之、曰、此甘露也、何言荼茗。『宋録』に「新安王の子鸞と予章王の子尚と、曇済道人を八公山に詣る。道人は荼茗を設ける、子尚の之を味わいて、曰く、此れ甘露なり、何ぞ荼茗と言わんや。」と。
王微雜詩。寂寂掩高閣、寥寥空廣廈。待君竟不歸、收領今就檟王微の「雑詩」に「寂寂として高閣を掩い、寥寥として広廈を空にす。君を待てど竟に帰らず、領を收めて今檟に就く。」と。
鮑昭妹令暉著香茗賦。 鮑昭の妹の令暉は「香茗賦」を著す。
南齊世祖武皇帝 遺詔。我靈座上慎勿以牲爲祭、但設餅果、茶飲、乾飯酒脯而已。南斉の世祖武皇帝の遺詔に「我が霊座の上、慎みて牲を以って祭りを為すこと勿れ、但だ餅果、茶飲、乾飯、酒脯を設けるのみ。」と。
劉孝綽晉安王 餉米等啓傳詔李孟孫宣教旨、垂賜米、酒、瓜、筍、菹、脯、酢、茗八種。氣苾新城、味芳雲松。江潭抽節、邁昌荇之珍。疆場擢翹越葺精之美羞非純束野麋裛似雪之驢鮓異陶瓶河鯉操如瓊之粲。茗同食粲、酢類望柑。免千里宿春、省三月糧聚小人懷惠、大懿難忘梁の劉孝綽の「晋安王が米等を餉(おくら)れしを謝する啓」に「伝詔の李孟孫が教旨を宣し、米、酒、瓜、筍、菹、脯、酢、茗の八種を垂賜さる。気は新城より苾(こうば)しく、味は雲松より芳し。江の潭(ふち)に節を抽(の)ばし、昌や荇の珍より邁(すぐれ)る。疆場に擢翹し、葺精の美さを越え。羞として純束の野麋に非ず、裛は雪の驢に似る、鮓は陶瓶の河鯉より異(すぐ)れ、操(と)れば瓊の粲の如し。茗は粲を食べるに同じく、酢は柑を望むに類す。千里の宿の春を免れ、三月の糧の聚(たくわ)うを省(はぶ)く。小人は恵を懐(おも)い、大懿は忘れ難し。」と。
陶弘景 雜錄。苦荼、輕身換骨、昔旦丘子黃山君服之。陶弘景の『雑録』に「苦荼は、身を軽くし骨を換える、昔、旦丘子・黃山君之を服す。」と。
後魏錄琅邪王肅、仕南朝、好茗飲、蓴羹。及還北地、又好羊肉、酪漿。人或問之、茗何如酪、肅曰、茗不堪與酪爲奴『後魏録』に「琅邪の王肅は、南朝に仕え、茗飲と蓴羹を好み。北地に還えるに及び、又た羊肉と酪漿を好む。人或いは之を問う、茗は酪と何如と、肅曰く、茗は酪の奴と為るに堪えず。」と。
桐君錄。西陽、武昌、廬江、晉陵好茗、皆東人作清茗。茗有餑、飲之宜人。凡可飲之物、皆多取其葉、天門冬、拔葜取根、皆益人。又巴東別有真茗茶、煎飲令人不眠。俗中多煮檀葉並大皂李作荼、並冷。又南方有真瓜蘆木、亦似茗、至苦澀、取爲屑茶飲、亦可通夜不眠。煮鹽人但資此飲、而交、廣最重、客來先設、乃加以香芼輩。『桐君録』に「西陽、武昌、廬江、晋陵に好茗あり、皆な東人の清茗に作る。茗に餑あり、之を飲めば人に宜し。凡そ飲む可きの物は、皆な多く其の葉を取る、天門冬と拔葜は根を取る、皆な人の益となる。又た巴東に別に真茗茶あり、煎飲すれば人をして眠らざしむ。俗中に多く檀葉並びに大皂李を煮て荼を作る、並べて冷なり。又た南方に真瓜蘆木あり、亦た茗に似る、至って苦澀、取りて屑茶と為して飲む、亦た通夜眠らざる可し。塩を煮る人は但だ此を飲み資とす、而して交・広に最も重んぜられ、客来らば先ず設け、乃ち香芼の輩を以って加う。」と。
坤元錄。辰州漵浦縣西北三百五十裏無射山、雲蠻俗當吉慶之時、親族集會歌舞於山上。山多茶樹。『坤元録』に「辰州漵浦県の西北三百五十裏に無射山あり、云う、蠻俗は吉慶の時に当り、親族の山上に集会歌舞す。山に茶樹多しと。」と。
括地圖。臨遂縣東一百四十裏有茶溪。
『括地図』に「臨遂県の東一百四十裏に茶溪あり。」と。
山謙之 吳興記。烏程縣西二十裏有溫泉山、出禦荈。山謙之の『呉興記』に「烏程県の西二十裏に温泉山あり、禦荈を出す。」と。
夷陵圖經。黃牛、荊門、女觀、望州等山、茶茗出焉。『夷陵図経』に「黃牛、荊門、女觀、望州等の山、茶茗出る。」と。
永嘉圖經。永嘉縣東三百里有白茶山。『永嘉図経』に「永嘉県の東三百里に白茶山あり。」と。
淮陰圖經。山陽縣南二十裏有茶坡。『淮陰図経』に「山陽県の南二十裏に茶坡あり。」と。
茶陵圖經。茶陵者、所謂陵穀生茶茗焉。『茶陵図経』に「茶陵なる者は、所謂ゆる陵穀に茶茗を生ず。」と。
本草.木部。茗苦茶。味甘苦、微寒、無毒。主瘻瘡、利小便、去痰渴熱、令人少睡。秋采之苦、主下氣消食。云、春采之。『本草』.木部に「茗は苦茶。味は甘と苦、微寒、毒なし。瘻瘡を主し、小便を利し、痰・渴・熱を去る、人をして少睡せしむ。秋に之を採れば苦し、気を下し食を消すに主く。云う、春に之を採る。」と。
本草.菜部。苦荼一名荼。一名選。一名遊冬。生益州川谷山陵道旁。淩冬不死。三月三日采幹。云、疑此即是今〓(木茶)、一名茶、令人不眠。本草注、按、詩云、誰謂荼苦、又云、堇荼如飴、皆苦菜也、陶謂之苦茶、木類、非菜流。茗、春采謂之苦〓(木茶)荄(遲途遐反)。『本草』.菜部に「苦荼は一名を荼。一名を選。一名を遊冬。益州の川谷や山陵の道旁に生え。冬を淩して死れず。三月三日采幹。云う、疑うらくは此れ即ち是れ今の〓(木茶)、一名は茶、人をして眠らざしむ。本草の注に、按ずるに、詩云う、誰か荼苦と謂うと、又た云う、堇荼は飴の如しと、皆な苦菜なり、陶は之を苦茶と謂い、木類とす、菜流に非ず。茗、春に採り之を苦〓(木茶)荄と謂う(遲は途遐の反)。」と。
枕中方。療積年、苦荼、蜈蚣並炙、令香熟、等分、搗篩、煮乾草湯洗、以敷之。『枕中方』に「積年の瘻を療すに、苦荼、蜈蚣を並べ炙り、香を熟さしめ、等分に、搗き篩し、乾草湯を煮て洗い、以って之を敷く。」と。
孺子方。療小兒無故驚蹶、以苦茶、蔥須煮服之。『孺子方』に「小兒の故無くして驚蹶するを療すに、以って苦茶・蔥須を煮て之を服す。」と。

 

○荊巴間
荊(ケイ)は、今の湖北省荊州市を中心とする湖北省西武地域。巴(ハ)は四川省東部。

○米膏
米(ベイ)は、『說文』に「粟實也。」 、段注に「粟、嘉穀實也。嘉穀者、禾黍也。實當作人。粟舉連秠者言之。米則秠中之人。・・・其去秠存人曰米。因以為凡穀人之名。是故禾黍曰米。稻稷麥苽亦曰米。」とあり、脱穀した穀類。膏(コウ)は、『說文』に「肥也。」、『韻會』に「凝者曰脂、澤者曰膏。」、『博雅』に「膏、滑澤也。」とある。
○芼之
芼(モウ)は、『唐韻』に「菜也、又擇也、搴也、謂抜取。」、『集韻』に「以菜和羹。」とあり、また混ぜ合わせるの意がある。
○脫粟(ダツゾク)
史記』平津侯主父列傳に「脫粟之飯。」、索隱注に「脫粟、才脫□而已、言不精鑿也。」とあり、精白していない玄米このと。

○炙三戈五卵
晏子春秋』卷六內篇雜下には「晏子相景公、食脫粟之食、炙三弋、五卯、苔菜耳矣。公聞之、往燕焉、睹晏子之食也。公曰、嘻、夫子之家、如此其貧乎、而寡人不知、寡人之罪也。晏子對曰、以世之不足也、免粟之食飽、士之一乞也、炙三弋、士之二乞也、五卯、士之三乞也。嬰無倍人之行、而有參士之食、君之賜厚矣、嬰之家不貧。再拜而謝。」(晏子、景公に相たり、脱粟の食を食い、三弋を炙り、五卯、苔菜のみ。公之を聞き、往いて燕す、晏子の食を睹るや。公曰く、嘻、夫子の家、此の如く其れ貧なるか、而るに寡人の知らざるは、寡人の罪なり。晏子対えて曰く、世の足らざるを以ってなり、免粟の食飽かしむは、士の一乞なり、三弋を炙るは、士の二乞なり、五卯は、士の三乞なり。嬰、人に倍するの行の無くして、参士の食あり、君の賜の厚し、嬰の家貧しからず。再拝して謝す。)とある。 炙(シャ)は、『說文』に「炮肉也。」とあり、あぶり肉また炙ること。戈(カ)は、『說文』に「平頭戟也。」とあり、矛(ほこ)のこと。卵(ラン)は、『史記』索隱注に「卵、雞子也。」とある。弋(ヨク)は、『韻會』に「弋、繳射飛鳥也。」とあり、鳥を射て取ることで、転じて狩りで獲った鳥。卯(ウ)は、『廣韻』に「辰名。爾雅曰、歲在卯曰單閼。晉書樂志云、正月之辰謂之寅、寅津也、謂物之津塗。二月卯、卯茂也、謂陽氣生而孳茂也。」とあり、十二支の一で、動物では兎に当てる。現行本『晏子春秋』の「炙三弋五卯」のほうが意味が通るが、『晏子春秋集釋』に「孫詒讓云、夏小正云、十二月鳴弋、金履祥(通鑑前編)孔廣森(大戴禮補注)並謂即鳶之壞字、則固中膳羞。禮經說庶羞、亦未聞有炙弋、且炙弋必以三為數、又何義乎、盧說殆不可通。竊疑此弋當為樴、儀禮鄉射禮記、聘禮記說脯、並云五膱、鄉射鄭注云、膱、猶脡也。聘禮注云、膱、脯如版然者、或謂之挺、皆取直貌焉。鄉飲酒禮脡作挺、注云、挺、猶膱也。釋文云、膱、本又作樴、膱、樴與杙、 弋形聲義並近、說文木部云、樴、弋也。爾雅釋宮云、樴謂之杙。故互通。炙脯同為肉物、亦得以樴計數、固其宜矣。」とあり、三弋は三本の乾かした肉のこととする。また、「洪頤烜云、五卵、謂鹽也。禮記內則、桃諸梅諸卵鹽、鄭注、卵鹽、大鹽也。正義以其鹽形似鳥卵、故云大鹽。卵鹽對散鹽言之、如今所謂顆鹽也。 俗本改作、五卯、非是。」 とあり、「五卵」は塩のこととし「五卯」に作るのは間違いとする。

○茗菜(メイサイ)
晏子春秋』卷六內篇雜下には「晏子相景公、食脫粟之食、炙三弋、五卯、苔菜耳矣。」で、「苔菜」とある。
○吳志(ごし)
三國志』吳書のこと。『三國志』卷六十五吳書二十には「皓每饗宴、無不竟日、坐席無能否率以七升為限、雖不悉入口、皆澆灌取盡。曜素飲酒不過二升、初見禮異時、常為裁減、或密賜茶荈以當酒。」 とあり、異同がある。
○吳興太守(ごこうたいしゅ)
呉興郡の長官で第五品の官。吳興(ごこう)は、『晉書』地理志に「孫皓分會稽立東陽郡、分吳立吳興郡、分豫章、廬陵、長沙立安成郡、分廬陵立廬陵南部都尉、揚州統丹楊、吳、會稽、吳興、新都、東陽、臨海、建安、豫章、鄱陽、臨川、安成、廬陵南部十四郡。」とあり、孫皓が甘露2年(226)「吳國興盛」の意で「吳興郡」を設け、今の浙江省湖州市にあたる。太守(たいしゅ)は、『晉書』職官志に「郡皆置太守」、『通典』職官典に「郡太守。郡守、秦官。秦滅諸侯、以其地為郡、置守、丞、尉各一人。守治民,丞佐之、尉典兵。 漢景帝中元二年、更名郡守為太守。凡在郡國、皆掌治民、進賢勸功、決訟檢姦。」、「晉郡守皆加將軍、無者為恥。」とある。

○衛將軍(えいしょうぐん)
三公の礼遇を受ける第二品の武官。『晉書』卷二十四・職官志に「左右衛將軍、案文帝初置中衛。及武帝受命、分為左右衛、以羊琇為左、趙序為右。」、『通典』晉官品に「第二品。特進、驃騎、車騎、衛將軍、諸大將軍、諸持節都督、開國縣侯伯子男爵。」、『通典』職官典に「衛將軍。漢文帝始用宋昌為衛將軍、位亞三司。其官屬附見大將軍後。凡驃騎、車騎、衛三將軍、皆金印紫綬、武冠絳朝服、佩水蒼玉。晉以陸曄為衛將軍、兼儀同三司、加千兵百騎。東晉以後、尤為要重。後魏初、加大則次儀同三司。孝文太和中制、加大則位在太子太師上。歷代多有。大唐無之。」とある。

○吏部尚書(りぶしょうしょ)
官吏の任免進退を掌る第三品の官。『晉書』職官志に「列曹尚書、案尚書本漢承秦置、及武帝遊宴後庭、始用宦者主中書、以司馬遷為之、中間遂罷其官、以為中書之職。至成帝建始四年、罷中書宦者、又置尚書五人、一人為僕射、而四人分為四曹、通掌圖書祕記章奏之事、各有其任。其一曰常侍曹、主丞相御史公卿事。其二曰二千石曹、主刺史郡國事。其三曰民曹、主吏民上書事。其四曰主客曹、主外國夷狄事。後成帝又置三公曹、主斷獄、是為五曹。後漢光武以三公曹主歲盡考課諸州郡事、改常侍曹為吏部曹、主選舉祠祀事、民曹主繕修功作鹽池園苑事、客曹主護駕羌胡朝賀事、二千石曹主辭訟事、中都官曹主水火盜賊事、合為六曹。并令僕二人、謂之八座。尚書雖有曹名、不以為號。靈帝以侍中梁鵠為選部尚書、於此始見曹名。及魏改選部為吏部、主選部事、又有左民、客曹、五兵、度支、凡五曹尚書、二僕射、一令為八座。及晉置吏部、三公、客曹、駕部、屯田、度支六曹、而無五兵。咸寧二年、省駕部尚書。四年、省一僕射、又置駕部尚書。太康中、有吏部、殿中及五兵、田曹、度支、左民為六曹尚書、又無駕部、三公、客曹。惠帝世又有右民尚書、止於六曹、不知此時省何曹也。及渡江、有吏部、祠部、五兵、左民、度支五尚書。」、『通典』晉官品に「第三品。侍中、散騎常侍、中常侍、尚書令、僕射、尚書、中書監、令、祕書監、諸征、鎮、安、平、中軍、鎮軍、撫軍、前後左右、征虜、輔國、龍驤等將軍。光祿大夫、諸卿尹、太子保傅、大長秋、太子詹事、司隸校尉、中領軍、中護軍、縣侯爵。」、『通典』職官典・尚書に「晉初有吏部、三公、客曹、駕部、屯田、度支六曹。無五兵。太康有吏部、殿中、五兵、田曹、度支、左民,為六曹尚書。無駕部、三公、客曹。及渡江、有吏部、祠部、五兵、左民、度支五尚書。皆銅印墨綬、進賢兩梁冠、納言幘、絳朝服、佩水蒼玉。乘軺車、皂輪、執笏負荷。」とある。
○揚州牧(ようしゅうぼく)
揚州(ようしゅう)は、今の江蘇省揚州市。『晉書』地理志に「揚州。案禹貢淮海之地、舜置十二牧、則其一也。」、「揚州合統郡十八、縣一百七十三、戶三十一萬一千四百。」とある。 牧(ぼく)は、『通典』職官典に 「靈帝中平五年、改刺史、唯置牧。是時天下方亂、豪傑各欲據有州郡、而劉焉、劉虞並自九卿出領州牧、州牧之任、自此重矣。舊制、州牧奏二千石長吏不任位者、事皆先下三公、三公遣掾史按驗、然後黜退。光武即位、用法明察、不復委三府、故權歸舉刺之吏。」「魏晉為刺史、任重者為使持節都督、輕者為持節、皆銅印墨綬、進賢兩梁冠、絳朝服、領兵者武冠。而晉罷司隸校尉、置司州、江左則揚州刺史。」とある。
○七奠柈
奠(テン) は、『說文』に「置祭也。」、段注に「置祭者置酒食而祭也。」(置祭は酒食を置き祭るなり。)とある。柈(バン)は、『字彙』に「即盤字」、『類篇』に「說文承槃也」とある。『晉書』は「溫性儉、每燕惟下七奠柈茶果而已。」とある。
○著平上幘單衣
幘(サク)は、『說文』に「髮有巾曰幘。」(髪に巾あるを幘と曰う。)、『玉篇』に「覆髻也。」とあり、頭巾のこと。平上幘(ヘイジョウサク)は、『晉書』輿服志に「幘者、古賤人不冠者之服也。漢元帝額有壯發、始引幘服之。王莽頂禿、又加其屋也。漢注曰、冠進賢者宜長耳、今介幘也。冠惠文者宜短耳、今平上幘也。始時各隨所宜、遂因冠為別。介幘服文吏、平上幘服武官也。」とあり、王莽が作った上部が平らな頭巾。單衣(タンイ)は「襌(タン)」で『說文』に「衣不重也。」(衣重ねざるなり。)とある。
○潰(潰當作憒)悶
潰(カイ)は、『玉篇』に「乱也。」。憒(カイ)は『說文』に「亂也。」。悶(モン)は、『說文』に「懣也。」。潰悶は、乱れもだえること。
○茶粥(チャシュク)
未詳。粥(シュク)は、『玉篇』に「糜也。」、『字彙』に「粥、黃帝始烹穀爲粥。」(粥は黃帝が始めて穀を烹て粥と為す。)とある。北宋の蔡襄の『茶錄』に「吳人采茶煑之、名茗粥。」(呉人の茶を采りて之を煮る、名を茗粥とす。)とある。末茶のこと、痷茶のこと、芼茶のことなど諸説ある。芼茶(モウチャ)は、茶に薑、桂、椒、桔皮、薄荷などと塩を加え煮て羹のようにして飲むもので「煮茶」ともいう。
○廉事(レンジ)
晉書』職官志には見えない。警官のことという。
○三青牛
青牛(セイギュウ)は、黒に近い色で 紺と黒の中間色の牛。黒牛のこととも。三匹の黒牛。
○奠祀
ここでは、祠(ほこら)のこと。
○嬌女(キョウジョ)
嬌(キョウ)は、『說文』に「姿也。」、『增韻』に「妖嬈也。」とあり、なまめかしく、たおやかなさま。
○皎皎頗白皙
皎(コウ)は、『說文』に「月之白也。」、『廣雅』に「白也。明也。」とあり、皎皎は、白く光り輝くさま。清らかなさま。頗(ハ)は、『博雅』に「少也。又差多曰頗多、良久曰頗久、多有曰頗有。」。皙(セキ)は、『說文』に「人色白也。」とあり、白皙(ハクセキ)は、肌の色の白いこと。

○小字爲紈素
小字(ショウジ)は、呼び名、あざな、幼いときの名。字(あざな)は、『儀禮』士冠禮に「冠而字之、敬其名也。君父之前稱名、他人則稱字也。」「女子許嫁筓而字。」とあり、姓と名(諱)のほかに、成人したときに付ける名で、通常は名(諱)を呼ばず、字で呼ぶ。「小字」は「小名」ともいい、幼名で、字の付く前の本人が幼い間だけ通用する名前。 紈素(ガンソ)。紈は、『釋名』に「紈、煥也。細澤有光、煥煥然也。」とある。

○清曆(セイレキ)
○馳騖翔園林
騖(ボウ)は、『說文』に「亂馳也。」、『玉篇』に「奔也、疾也。」、『爾雅注疏』に「騖謂馳騖。」とある。翔(ショウ)は、『說文』に「回飛也。」とあり、翔(か)ける。園林(エンリン)は、庭園の中の林。また、庭園と林。
○倏忽數百適
倏(シュク)は、『說文』に「走也。」、『廣雅』に「儵,疾也。」。忽(コウ)は、『廣韻』に「倏忽也。」。倏忽(シュクコウ)は、『漢書』序傳に「辰倏忽其不再。」、注に「倏忽、疾也。」とあり、たちまち。適(テキ)は、『廣韻』に「往也。」、『正韻』に「至也。」とある。
○吹噓對鼎〓(金曆)
噓(キョ)は、『說文』に「吹也。」、『玉篇』に「吹噓。」、『聲類』に「出氣急曰吹、緩曰噓。」(気を出すに急なるを吹と曰い、緩なるを噓と曰う。)とあり、吹噓(スイキョ)は、吹くこと。鼎(テイ)は、『說文』に「鼎三足兩耳、和五味之寶器也。昔禹收九牧之金、鑄鼎荆山之下。」、『玉篇』に「鼎、所以熟食器也。」とあり、現在の鍋・釜の用に当てた古代中国の金属製の器。〓(金曆)(レキ)は、鎘の異体字で『集韻』に「說文鼎屬也。實五觳。斗二升曰觳。象腹交文、三足。」とあり、「鼎」の類。

○成都樓(セイトロウ)
『晉張孟陽集』には「登成都白菟樓」とある。成都(セイト)は、今の四川省成都市。白菟樓(ハクトロウ)は、はじめ張儀樓といい、のち白菟樓と改め称されたという。「登成都白菟樓」には「重城結曲阿、飛宇起層樓、累棟出雲表、嶢檗臨太虛。高軒啟朱扉、回望暢八隅。西瞻岷山嶺、嵯峨似荊巫、蹲鴟蔽地生、原隰殖嘉蔬。雖遇堯湯世、民食恒有餘、鬱鬱少城中、岌岌百族居、街術紛綺錯。高甍夾長衢、借問楊子宅、想見長卿廬、程卓累千金、驕侈擬五侯、門有連騎客。翠帶腰吳鉤、鼎食隨時進。百和妙且殊、披林采秋橘。臨江釣春魚、黑子過龍醢、果饌踰蟹蝑、芳茶冠六清、溢味播九區、人生茍安樂、茲土聊可娛。」とある。

○借問揚子舍
借問(シャモン)は、こころみに質問すること。ちょっと尋ねること。 揚子舍。揚子(ヨウシ)は、楊雄のこと。舍(シャ)は、『說文』に「市居曰舍。」、『廣韻』に「屋也。」とあり、住宅のこと。『漢書』揚雄傳に「揚雄字子雲、蜀郡成都人也。其先出自有周伯僑者、以支庶初食采於晉之揚、因氏焉、不知伯僑周何別也。揚在河、汾之間、周衰而揚氏或稱侯、號曰揚侯。會晉六卿爭權、韓、魏、趙興而范中行、知伯弊。當是時、偪揚侯、揚侯逃於楚巫山、因家焉。楚漢之興也、揚氏溯江上、處巴江州。而揚季官至廬江太守、漢元鼎間避仇復溯江上、處岷山之陽曰郫、有田一廛、有宅一區、世世以農桑為業。自季至雄、五世而傳一子、故雄亡它揚於蜀。」(揚雄、字は子雲、蜀郡成都の人なり。其の先、有周の伯僑なる者より出で、支庶なるを以て初め采を晋の揚に食み、因りて焉れを氏とするも、伯僑は周の何れの別なるかを知らざるなり。揚は河・汾の間に在り、周衰えて揚氏或いは侯と称し、号して揚侯と曰う。晋の六卿権を爭い、韓・魏・趙興りて范・中行・知伯弊るるに会う。是の時に当たり、揚侯に偪り、揚侯楚の巫山に逃れ、因りて焉に家す。楚漢の興るや、揚氏江を遡り上り、巴の江州に処りて、揚季は官廬江太守に至る。漢の元鼎の間、仇を避け復た江を遡り上り、山の陽の郫と曰うに処り。田一廛有り、宅一区有り、世世農桑を以て業と為す。季より雄に至るに、五世にして一子を伝え、故に雄に它揚の蜀に亡し。)とある。
○想見長卿廬
長卿(チョウケイ)は、司馬相如のこと。廬(ロ)は、『說文』に「寄也。秋冬去、春夏居。」、『玉篇』に「屋舍也。」、『集韻』に「粗屋總名。」とある。
○程卓累千金
程卓は、程氏と卓氏で、共に製鉄業で財を成した。程(テイ)は、『史記』貨殖列傳に「程鄭、山東遷虜也、亦冶鑄、賈椎髻之民、富埒卓氏、俱居臨邛。」とある。卓(タク)は、『史記』貨殖列傳に「蜀卓氏之先、趙人也、用鐵冶富。秦破趙、遷卓氏。卓氏見虜略、獨夫妻推輦、行詣遷處。諸遷虜少有餘財、爭與吏、求近處、處葭萌。唯卓氏曰、此地狹薄。吾聞汶山之下、沃野、下有蹲鴟、至死不饑。民工於市、易賈。乃求遠遷。致之臨邛、大喜、即鐵山鼓鑄、運籌策、傾滇蜀之民、富至僮千人。田池射獵之樂、擬於人君。」とある。
○驕侈擬五侯
驕侈(キョウシ)は、おごって、ぜいたくをすること。五侯(ゴコウ)は、前漢の成帝の皇太后の王政君とその兄弟の王鳳が河平2年(B.C.27)に異母弟たちの王譚を平阿侯、王商を成都侯、王立を紅陽侯、王根を曲陽侯、王逢時を高平侯にと、五人を同日に列候に封じたため「五侯」と呼ばれた。『漢書』元後傳に「五侯群弟、爭為奢移、賂遺珍寶、四面而至、後廷□妾、各數十人、僮奴以千百數。」(五侯群弟、争いて奢移を為し、賂に珍宝を遣り、四面して至る、後廷の□妾、各数十人、僮奴千百を以って数う。)とある。
○翠帶腰吳鈎
翠帶(スイタイ)は、翡翠の付いた帯。鉤(コウ)は、『說文』に「曲也。」、『玉篇』に「鐵曲也。」、『漢書』注に「鉤、亦兵器也。似劒而曲、所以鉤殺人也。」とあり、吳鈎(ゴコウ)は、宋の沈括の『夢溪筆談』に「吳鉤、刀名也。刀彎、今南蠻用之、謂之葛黨刀。」(呉鉤は刀の名なり。刀は彎し、今は南蛮が之を用い、之を葛黨刀と謂う。)とあり、形は剣に似て、湾曲し切先がなく両方に刃が付いている。『吳越春秋』闔閭內傳に「闔閭既寶莫耶、復命於國中作金鉤。令曰、能為善鉤者、賞之百金。吳作鉤者甚眾。而有人貪王之重賞也、殺其二子、以血舋金、遂成二鉤、獻於闔閭、詣宮門而求賞。王曰、為鉤者眾而子獨求賞、何以異於眾夫子之鉤乎。作鉤者曰、吾之作鉤也、貪而殺二子、舋成二鉤。王乃舉眾鉤以示之、何者是也。王鉤甚多、形體相類、不知其所在。於是鉤師向鉤而呼二子之名、吳鴻、扈稽、我在於此、王不知汝之神也。聲絕於口、兩鉤俱飛著父之胸。吳王大驚、曰、嗟乎、寡人誠負於子。乃賞百金。遂服而不離身。」とあり、呉王の闔閭が由来となっている。
○鼎食隨時進
鼎食(テイショク)は、鼎を並べて食べることで、富貴の人家の飲食の奢侈なるを形容する語。
○百和妙且殊
百和(ヒャクワ)は、色々な味が調いそろうこと。
○披林采秋桔
『晉張孟陽集』「登成都白菟樓」には「披林采秋橘。」とある。「桔」は「橘」の俗字。橘(キツ)は、『說文』に「果出江南。」、『正字通』に「果名。樹枝多棘、冬不凋葉靑、花白、子黃、橘柚二樹相似非橙也。」、『本草綱目』に「別錄曰、橘、柚、生江南及山南山谷、十月采。 恭曰、柚之皮厚味甘、不似橘皮味辛苦。其肉亦如橘、有甘有酸。酸者名胡柑。今俗謂橙為柚、非矣。案、郭璞云、柚似橙而實酢、大於橘。孔安國云、小曰橘、大曰柚、皆為柑也。 頌曰、橘、柚,今江浙、荊襄、湖嶺、皆有之。木高一二丈、与枳无辨、刺出茎。夏初生白花、六七月成實、至冬黄熟。」(別録に曰く、橘、柚は江南、及び山南の山谷に生ず。 十月に採る。 恭曰く、柚の皮の厚く味甘きは、橘皮の味の辛苦なるに及ばず。 其の肉も亦た橘の如く、甘きと酸きとあり、酸きものは胡柑と名づく。 今俗に橙を柚というは非。按ずるに、郭璞は、柚は橙に似て実が酸く、橘よりも大と云う、孔安国は、小なるを橘、大なるを柚と云う。皆な柑なり。 頌に曰く、橘、柚、今は江浙、荊嚢、湖嶺、皆な之を有す。木は高さ一二丈、枳と弁ぜざるも、刺の茎間に出ず。夏初に白花を生じ、六七月に実が成り、冬に至って黄熟す。)とあり、蜜柑に同定されている。秋橘(シュウキツ)は、秋に採れる蜜柑。
○臨江釣春魚
○黑子過龍醢
黑子(コクシ)は、未詳。醢(カイ)は、『說文』に「肉醬也。」、『爾雅』釋器に「魚謂之鮨,肉謂之醢。」、『周禮』天官に「醢人。掌四豆之實。朝事之豆、其實韭菹、蚳醢、昌本、麋臡、菁菹、鹿臡、茆菹、麇臡。饋食之豆、其實葵菹、蠃醢、脾析、蜱醢、蜃、蚳醢、豚拍、魚醢。」、註に「凡作醢者、必先膊乾其肉、乃後莝之、雜以粱麴及鹽、漬以美酒、塗置甁中、百日則成。鄭司農曰、無骨曰醢。」とある。龍醢(リュウカイ)は、『述異記』に「蟒蛇目圓蛟眉連生、連生則交矣。相書所謂交眉則蛟蜃之眉是也。一說蛟尾有肉環、束物則以首貫之。舊云鳳骨黑、蛟骨青。記曰伐蛟取鼉、登龜取黿。鄭氏謂蛟言伐者、以其有兵衛也。龜言登尊之、按古有蛟鮓、又有龍醢。夫龍神物也而可豢。是亦豕類爾、非真龍也。犬豕曰豢夫惟可豢、是以可醢而食、字從肉蓋以此故。君子不欲豢於人也、俗說虎中有真虎、龍中有真龍。」 、白居易の「九年十一月二十一日感事而作(其日獨遊香山寺)」詩に「禍福茫茫不可期、大都早退似先知。當君白首同歸日、是我青山獨往時。顧索素琴應不暇、憶牽黃犬定難追。麒麟作脯龍為醢、何似泥中曳尾龜。」とある。
○吳饌逾蟹蝑
『晉張孟陽集』「登成都白菟樓」には「果饌踰蟹蝑。」とある。饌(セン)は、『說文』に「具食也。」(食を具うるなり)とあり、果饌(カセン)は、食卓に並べられた果物。吳饌(ゴセン)は、『太平廣記』に「吳郡獻海鮸乾鱠四瓶、瓶容一斗。浸一斗、可得徑尺數盤。并狀奏作乾鱠法。帝示群臣云、昔術人介象于殿庭釣得海魚、此幻化耳。亦何足為异。今日之鱠、乃是真海魚所作、來自數千里、亦是一時奇味。虞世基對曰、術人之魚既幻、其鱠固亦不真。出數盤以賜達官。作乾鱠之法、當五六月盛熱之日、于海取得鮸魚。大者長四五尺、鱗細而紫色、無細骨不腥者。捕得之、即于海船之上作鱠。去其皮骨、取其精肉縷切。隨成隨晒、三四日、須极干、以新白瓷瓶、未經水者盛之。密封泥、勿令風入、經五六十日、不异新者。取啖之時、并出乾鱠、以布裹、大瓮盛水漬之、三刻久出、帶布瀝卻水、則皦然。散置盤上、如新鱠無別。細切香柔葉舖上、筋撥令調勻進之。海魚体性不腥、然鱕鮸魚肉軟而白色、經干又和以青葉、皙然极可噉。」 とある。 蝑(シャ)は、『廣韻』に「鹽藏蟹。」(塩蔵の蟹。)とあり、蟹蝑(カイシャ)は、蟹の醬。
○芳荼冠六清
六清(ロクセイ)は、『周禮』天官膳夫に「凡王之饋、食用六穀、膳用六牲、飲用六清、羞用百有二十品、珍用八物、醬用百有二十罋。」とあり、注に「六清為水、漿、醴、〓(酉京)、醫、酏。」とある。
○溢味播九區
九區(キュウク)は、九州のことで、中国全域の総称。古代、中国全土を九州に分けたことに由来する雅称。『書經』禹貢に「禹別九州。」とあり、冀州、兗州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州を載せる。 『爾雅』の九州は冀州、豫州、雍州、荊州、揚州、兗州、徐州、幽州、營州。『周禮』の職方氏は揚州、荊州、豫州、青州、兗州、雍州、幽州、冀州、并州を指す。
○寒溫既畢,應下霜華之茗
○三爵
爵(シャク)は、『說文』に「禮器也。象爵之形、中有鬯酒、又持之也。所以飲。器象爵者、取其鳴節節足足也。」とあり、古代の酒器。宋の陸佃の『埤雅』に「一升曰爵。」とある。
○美豉(ビシ)
豉(シ)は、『說文』に「配鹽幽尗也。」、徐本に「尗、豆也。幽、謂造之幽暗也。」、明の焦竑の『俗書刊誤』に「蓋豉本豆也、以鹽配之、閉甕中而成。」(蓋し豉は本と豆なり、塩を以って之を配し、甕の中に閉して成す。)、曹植の「七步詩」に「煮豆持作羹。漉豉以爲汁。」(豆を煮て持って羹と作し、豉を漉して以って汁と為す)とあり、味噌の類。美豉(ビシ)は、美味い味噌。
○精稗(セイハイ)
稗(ハイ)は、說文』に「毇也。」、段注に「稗者、糲米一斛舂為九斗也。」、『玉篇』に「精米也。」とあり、精白した米。
○蒙塵(モウジン)
春秋左傳』僖公二十四年に「冬、王使來告難曰、不穀不德、得罪于母弟之寵子帶、鄙在鄭地氾、敢告叔父、臧文仲對曰、天子蒙塵于外、敢不奔問官守、王使簡師父告于晉、使左鄢父告于秦、天子無出、書曰、天王出居于鄭、辟母弟之難也、天子凶服降名、禮也。」あるところから、天子が行幸するときは道を清めてから行くが、変事の際はその余裕がなく、頭から塵をかぶる意。天子が、変事のために難を避けて、宮城の外に逃れること。みやこおち。
○黃門(コウモン)
通典』に「凡禁門黃闥、故號黃門。其官給事于黃闥之內。故曰黃門侍郎。初。秦漢別有給事黃門之職。揚雄為給事黃門。後漢並為一官。故有給事黃門侍郎。掌侍從左右。給事中使。關通中外。」、『後漢書』李杜列傳・李固傳に「今與陛下共理天下者、外則公卿尚書、內則常侍黃門。」、『後漢書』蘇竟楊厚列傳に「今黃門常侍、天刑之人、陛下愛待。」、『四分律名義標釋』に「黃門。亦曰黃闥。黃屬中。即禁中之門。謂天子居天下之中。統理萬民。而所居門閤有禁。非侍御之臣。不得妄入。故漢置小閹十人。令主省中諸宦。通命兩宮。以主黃家之門。故曰黃門。閹者。揜也。言其無陰。精氣掩閉不泄。又曰黃昏掩閉門。謂之黃門。應以初義為正。今無論主門非主門。但無男根。皆是也。」とあり、宦官の通称。
○瓦盂(ガウ)
瓦(ガ)は、說文』に「土器已燒之總名。」(土器の已に燒くものの総名。)とある。 盂(ウ)は、說文』に「飯器也。」、段注に「飲器也。飲、大徐及篇、韵、急就篇注、作飯、誤。小徐及後漢書注、御覧皆作飲。不誤。」、『方言』に「宋楚魏之閒、盌謂之盂。」とあり、茶碗のこと。
○翳桑之報
春秋左傳』宣公二年に「初、宣子田於首山、舍于翳桑、見靈輒餓、問其病、曰、不食三日矣、食之、舍其半、問之、曰、宦三年矣、未知母之存否、今近焉、請以遺之、使盡之、而為之簞食與肉、寘諸橐以與之、既而與為公介、倒戟以禦公徒、而免之、問何故、對曰、翳桑之餓人也、問其名居、不告而退、遂自亡也。」 (初め宣子は首山に田し、翳桑に舎る、霊輒の餓えたるを見て、其の病を問う、曰く、食わざること三日と、之に食わしむ、其の半ばを舎く、之を問う、曰く、宦すること三年、未だ母の存否を知らず、今近し、請う以って之を遺らんと、之を尽くさしめ、而して之が為に食と肉を箪にし、諸橐に寘きて以って之に与う。寘諸橐以與之、既にして与に公介と為る、戟を倒して以って公徒を禦ぎ、之を免る、何故かを問う、対えて曰く、翳桑の餓人なりと、其の名と居を問う、告げずして退き、遂に自ら亡ぐるなり。) とあるに典拠し、恩返しのこと。翳桑(エイソウ)は地名。
○禱饋(トウキ)
禱(トウ)は、說文』に「告事求福也。」(事を告げ福を求むなり。)とあり、祷(いの)る、祭ること。 饋(キ)は、說文』に「餉也。」、『周禮』天官に「膳夫凡王之饋。」、註に「進食于尊者曰饋。」(尊者に食を進むるを饋と曰う。)とある。お供えをして祈ること。
○往市鬻之
鬻(シュク)は、『說文』に「〓(食建)也。」、註に「今俗作粥。」とあり、粥の本字。段注に「按、一音余六切、是以賣、鬻作、賣之假借也。」とあり、『集韻』に「賣也。」とあり、鬻(ひさ)ぐこと、売ること。
○州法曹
法曹(ホウソウ)は、『通典』職官典・州郡下に「司法參軍。兩漢有決曹賊曹掾、主刑法。歷代皆有、或謂之賊曹、或為法曹、或為墨曹。」とあり、刑法を掌る。
○獄牖中飛出
牖(ユウ)は、『說文』に「穿壁以木爲交窻也。」(壁を穿ち木を以って交窓と為すなり。) とあり、木窓のこと。
○懸車(ケンシャ)
漢書』雋疏于薛平彭列傳・薛廣德傳に「後月餘、以歲惡民流、與丞相定國、大司馬車騎將軍史高俱乞骸骨、皆賜安車駟馬、黃金六十斤、罷。廣德為御史大夫、凡十月免。東歸沛、太守迎之界上。沛以為榮、縣其安車傳子孫。」とあり、広徳が骸骨を乞い安車を賜り、その安者を懸けて子孫に伝えたとあるところから、退職のこと。漢の蔡邕の「陳寔碑」に「時年己七十。遂隱丘山、懸車告老。」、後漢の班固の『白虎通』致仕に「臣年七十懸車致仕者、臣以執事趨走為職、七十陽道極、耳目不聰明跂踦之屬、是以退老去、避賢者路、所以長廉遠恥也。懸車、示不用也。」とあり、退官の年齢が七十歳であったところから、七十歳の別称。乞骸骨は、官吏が退職を求めること。自分の骸骨をもらって帰郷し、埋葬することの意。
○洗馬(センバ)
太子洗馬(タイシセンバ)。皇太子の属官で第七品の官。『通典』職官典・東宮官に「洗馬。秦官、漢亦曰先馬。如淳曰、前驅也。國語曰、句踐親為夫差先馬。先或作洗。又漢書、汲黯及姊子司馬安並為太子洗馬。安文深巧善宦、四至九卿。後漢員十六人、職如謁者、太子出則當直者前驅、導威儀也。漢選郎中補。安帝時、太子謁廟、洗馬高山冠。非乘從時、著小冠。魏因之。晉有八人、職如謁者、准秘書郎。進賢一梁冠、黑介幘、絳朝服。掌圖籍、釋奠講經則掌其事、餘與後漢同。晉江統為洗馬、太子頗好游宴、或闕朝侍、統以五事諫之。又陸機、鄧攸、傅鹹並為洗馬、又衛玠為洗馬。」とあり、『晉書』職官志に「洗馬八人、職如謁者秘書、掌圖籍。釋奠講經則掌其事、出則直者前驅、導威儀。」(洗馬は八人、職は謁者秘書の如く、図籍を掌る。釈奠、講経に則ち其の事を掌り、出づれば則ち直者、前驅し、威儀を導く。)とある。
○醯(ケイ)
說文』に「酸也。」、『玉篇』に「酸味也。」、『廣韻』に「酢味也。」とある。
○虧敗(キハイ)
虧(キ)は、『說文』に「氣損也。」、『廣韻』に「缺也。」とあり、虧敗(キハイ)は、損ない毀すこと。
○寂寂掩高閣、寥寥空廣廈
寂寂(セキセキ)は、しずかなこと。閣(カク)は、『說文』に「所以止扉者。」(扉を止める所以のものなり。)、『玉篇』に「樓也。」とある。寥寥(リョウリョウ)は、さびしいさま。廈(カ)は、『說文』に「屋也。」、『集韻』に「大屋。」 とある。
○收領今就檟
收(シュウ)は、『說文』に「捕也。」、『字彙』に「聚也。斂也。捕也。」領(リョウ)は、『說文』に「項也。」、『釋名』に「領、頸也。以壅頸也。」(領は頸なり。以って頸を壅うなり。)とある。 就(シュウ)は、『禮記』檀弓に「先王之制禮也、過之者俯而就之、不至焉者、跂而及之。」、『增韻』に「從也。」とある。檟(カ)は、『說文』に「檟。楸也。」とあり、楸(ひさぎ)は、比佐岐・久木で、アカメガシワまたはキササゲの古名という。『春秋左傳』に「必樹吾墓檟、檟可材也」(必ず吾が墓に檟を樹えよ。檟は材とすべきなり。)とあり、檟は棺桶の材料とされていた。『玉臺新詠集』には「桑妾獨何懷、傾筐未盈把。自言悲苦多、排卻不肯捨。妾悲叵陳訴、填憂不銷冶。寒雁歸所從、半途失憑假。壯情忭驅馳、猛氣捍朝社。常懷雪漢慙、常欲復周雅。重名好銘勒、輕軀願圖寫。萬里度沙漠、懸師蹈朔野。傳聞兵失利、不見來歸者。奚處埋旍麾、何處喪車馬。拊心悼恭人、零淚覆面下。徒謂久別離、不見長孤寡。寂寂揜高門、寥寥空廣厦。待君竟不歸、收顏今就檟。」とあり、「收顏今就檟。」に作る。
○遺詔(イショウ)
遺(イ)は、『說文』に「亡也。」とあり、詔(ショウ)は、『說文』に「吿也。」、『史記』秦始皇本紀に「命爲制、令爲詔、天子自稱曰朕。」(命を制と為し、令を詔と為し、天子自ら称して朕と曰はん。)とあり、『廣韻』に「上命也。秦漢以下、天子獨稱之。」とあり、遺詔(イショウ)は皇帝の遺言。
○靈座(レイザ)
使者の祭祀用の座。霊床ともいう。
○以牲爲祭
牲(セイ)は、『說文』に「牛全完。」、『書經』微子に「今殷民、乃攘竊神祇之犧牷牲用。」、尚書傳に「色純白曰犧,體完曰牷,牛羊豕曰牲,器實曰用。」とあり、祭祀に用いる生贄。
○餅果(ヘイカ)
餅(ヘイ)は、『說文』に「麪餈也。」、 『釋名』釋飲食に「餅、并也、溲麪使合并也。」(餅は并なり、麺を溲ね合并せ使むなり。) とあり、麦粉を水で捏ね合わせたもの。 果(カ)は、『說文』に「木實也。」とあり、木に成る実。
○乾飯(カンハン)
集韻』に「 糒、乾飯也。」とあり、糒(ほしいい)、干した飯のこと。
○酒脯(シュホ)
脯(ホ)は、『說文』に「肉乾也。」、『漢書』東方朔傳に「乾肉爲脯。」とあり、干した肉のこと。『晉書』祖逖傳に「玄酒忘勞甘瓠脯。」とあり、干した瓜や果物のこともいう。ここでは干した果物。
○餉米等啓
餉(ショウ)は、『說文』に「饟也。」、『玉篇』に「饋也。」とあり、食を贈る意。啓(ケイ)は、『說文』に「教也。」とあり、官の書信をいう。
○疆場擢翹
疆(キョウ)は、『說文』に「界也。」、『玉篇』に「竟也、界也。」とあり、境界のこと。場(ジョウ)は、『說文』に「祭神道也。一曰田不耕。一曰治穀田也。」、『字彙』に「築土爲壇、除地爲場。一曰收禾圃。」とあり耕作地。疆場(キョウジョウ)は、『詩經』小雅・信南山に 「中田有廬、疆場有瓜。」とあるが、『康熙字典』道光本に「謹照原文疆場改疆埸。」とあり、「疆埸」が正しいとする。疆埸(キョウエキ)は「毛傳」に「埸,、畔也。」、鄭玄箋に「中田、田中也。農人作廬焉、以便其田事。於畔上種瓜。」とあり、田の畔(あぜ)。擢(テキ)は、『說文』に「引也。」、『廣韻』に「抽也、出也。」。翹(ギョウ)は、『說文』に「尾長毛也。」(尾の長き毛なり。)、『廣雅』に「舉也。」とある。
○越葺精之美
葺(シュウ)は、『玉篇』に「修補也。」、『廣雅』に「覆也。」、『通俗文』に「苫也。」、『楚辭』悲回風に「魚葺鱗以自別兮。」とあり、累積、重畳、重なる、重ねるの意。精(セイ)は、『說文』に「擇也。」、『廣韻』に「熟也、細也、專一也。」、『增韻』に「凡物之純至者皆曰精。」(凡そ物の純の至る者は皆な精と曰う。)とある。葺精(シュウセイ)は、精を重ねたものか。
○羞非純束野麋
羞(シュウ)は、『說文』に「進獻也。」、『廣韻』に「致滋味爲羞。」(滋味の到るを羞と為す。)とあり、ご馳走のこと。純束(トンソク)は、『詩經』國風・召南に「林有樸樕、野有死鹿。白茅純束、有女如玉。」(林に樸樕あり、野に死鹿あり。白茅純束、女あり玉の如し。)とあり。束ねること。麋(ビ)は、『說文』に「鹿屬。冬至解其角。」、『爾雅』釋獸に「麋。牡麔、牝麎、其子〓(上鹿下夭)、其跡躔、絕有力狄。」 とあり、シカ科の獣。麋鹿(ビロク)は、四不像(シフゾウ)で、シカのような角、ウシのような蹄、ウマのような顔、ロバのような尾を持つ、シカ亜科シフゾウ属の獣。揚雄の『蜀都賦』に「獸則麙羊野麋。」とある。
○裛似雪之驢
裛(ユウ)は、『說文』に「書囊也。」、『玉篇』に「囊也。衣把也。」、班固の『西都賦』に「裛以藻繡、絡以獄鏀。」 とあり、書物を入れる袋、また物を包む布、包み。 驢(ロ)は、『說文』に「似馬、長耳。」、『正字通』に「驢長頰廣額修尾、有褐白黑三色、以午及五更初而鳴、協漏刻。」とあり、驢馬(ろば)のこと。
○鮓異陶瓶河鯉
鮓(サ)は、 『釋名』釋飲食に「鮓、葅也、以鹽米釀之如葅、熟而食之也。」(鮓、葅なり、塩と米を以って之を葅の如く釀し、熟して之を食すなり。)とあり、馴れ寿しのこと。河鯉(カリ)は、『詩經』國風・陳風に「豈其食魚、必河之鯉。」とあるによる。陶弘景の『本草集注』に「鯉最爲魚中之主、形旣可愛、又能神變、乃至飛越山湖、所以琴高乗之。」、『正字通』に「神農書曰、鯉爲魚王、無大小、脊旁鱗皆三十有六、鱗上有小黑點、文有赤白黃三種。」とある。
○操如瓊之粲
操(ソウ)は、『說文』に「把持也。」、『廣韻』に「持也。」とあり、握ること、持つこと、取ること。瓊(ケイ)は、『說文』に「赤玉也。」、『字彙』に「按詩言玉以瓊者多矣。瓊華、瓊英、瓊瑩、瓊瑤、瓊琚、瓊玖、皆謂玉色之美爲瓊。」とあり、玉の色の美しいもの。粲(サン)は、『說文』に「稻重二〓(禾石)、爲粟二十斗、爲米十斗、曰毇。爲米六斗大半斗曰粲。」とあり、精米のこと。
○免千里宿春省三月糧聚
莊子』内篇・逍遥遊に「適百里者、宿舂糧、適千里者、三月聚糧」(百里を適く者は、宿に糧を舂き、千里を適く者は、三月糧を聚む。)とあるに基づく。
○小人懷惠大懿難忘
小人懷惠は、『論語』に「子曰、君子懷德、小人懷土、君子懷刑、小人懷惠。」(子の曰く、君子は徳を懐い、小人は土を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵を懐う。)とあるに基づく。懷(カイ)は、『爾雅』釋詁に「懷、思也。」、『說文』に「懷、念思也。」、段注に「念思者、不忘之思也。」とあり、思う。 懿(イ)は、『爾雅』釋詁に「美也。」、『說文』に「專久而美也。」(專久にして美なり。)、『廣韻』に「美也。大也。溫柔聖克也。」とある。
○蓴羹(ジュンコウ)
晉書』文苑傳・張翰傳に「翰因見秋風起、乃思吳中菰菜、蓴羹、鱸魚膾。」(翰は因って秋風の起るを見、乃ち呉中の菰菜、蓴羹、鱸魚の膾を思う。)とあり、『齊民要術』に「食膾魚、蓴羹、芼、羹之菜、蓴為第一。四月蓴生、莖而未葉、名作雉尾蓴、第一肥美。葉舒長足、名曰絲蓴。五月六月用絲蓴。入七月、盡九月十月內、不中食、蓴有蝸蟲著故也。蟲甚微細、與蓴一體、不可識別、食之損人。十月、水凍蟲死、蓴還可食。從十月盡至三月、皆食瑰蓴。瑰蓴者、根上頭、絲蓴下茇也。絲蓴既死、上有根茇、形似珊瑚、一寸許肥滑處任用;深取即苦澀。凡絲蓴、陂池種者、色黃肥好、直淨洗則用、野取、色青、須別鐺中熱湯暫之、然後用、不則苦澀。絲蓴、瑰蓴、悉長用不切。魚、蓴等並冷水下。若無蓴者、春中可用蕪菁英、秋夏可畦種芮菘、蕪菁葉、冬用薺葉以芼之。蕪菁等宜待沸、接去上沫、然後下之。皆少著、不用多、多則失羹味。乾蕪菁無味,不中用。豉汁於別鐺中湯煮一沸、漉出滓、澄而用之。勿以杓抳、抳則羹濁——過不清。煮豉但作新琥珀色而已、勿令過黑、黑則苦。唯蓴芼而不得著蔥、及米糝、菹、醋等。蓴尤不宜鹹。羹熟即下清冷水、大率羹一斗、用水一升、多則加之、益羹清俊甜美。下菜、豉、鹽、悉不得攪、攪則魚蓴碎、令羹濁而不能好。食經曰、蓴羹、魚長二寸、唯蓴不切。鱧魚、冷水入蓴、白魚、冷水入蓴、沸入魚。與鹹豉。又云、魚長三寸、廣二寸半。又云、蓴細擇、以湯沙之。中破鱧魚、邪截令薄、准廣二寸、橫盡也、魚半體。煮三沸、渾下蓴。與豉汁、漬鹽。」とあり、蓴菜(じゅんさい)と魚を煮た羹(あつもの)で、呉中(蘇州)あたりの名物であったらしい。
○酪漿(ラクショウ)
『涅槃經』に「譬如從牛出乳。從乳出酪。從酪出生酥。從生酥出熟酥。從熟酥出醍醐。」(譬へば牛より乳が出る如く、乳より酪が出、酪より生酥が出、生酥より熟酥が出、熟酥より醍醐が出る。)とあり、『根本說一切有部尼陀那目得迦』に「佛言。醋漿有六。皆可服用。一大醋。二麥醋。三藥醋。四小醋。五酪漿。六鑽酪漿。」「酪漿者。謂酪中漿水。」(酪漿は、酪の中の漿水を謂う。) とあり、乳から乳脂肪分やカゼインなどのタンパク質を除いた水溶液である乳漿(にゅうしょう)のことか。
○茗不堪與酪爲奴
『洛陽伽藍記』 に「肅初入國。不食羊肉及酪漿等物。常飯鯽魚羹。渴飲茗汁。京師士子道。肅一飲一斗。號為漏巵。經數年已後。肅與高祖殿會食。羊肉酪粥甚多。高祖怪之。謂肅曰。卿中國之味也。羊肉何如魚羹。茗飲何如酪漿。肅對曰。羊者是陸產之最。魚者乃水族之長。所好不同。並各稱珍。以味言之甚是優劣。羊比齊魯大邦。魚比邾莒小國。唯茗不中與酪作奴。高祖大笑因舉酒曰。三三橫兩兩縱。誰能辨之賜金鍾。御史中丞李彪曰。沽酒老嫗瓮注。屠兒割肉與稱同。尚書右丞甄琛曰。吳人浮水自云。工妓兒擲絕在虛空。彭城王勰曰。臣始解此字是習字。高祖即以金鍾賜彪。朝廷服彪。聰明有智。甄琛和之亦速。彭城王謂肅曰。卿不重齊魯大邦。而愛邾莒小國。肅對曰。鄉曲所美不得不好。彭城王重謂曰。卿明日顧我。為卿設邾莒之食。亦有酪奴。因此復號茗飲為酪奴。時給事中劉縞慕肅之風。專習茗飲。」とあり、ここから茶のことを酪奴というようになる。
○瘻瘡(ロウソウ)
瘻(ロウ)は、『說文』に「頸腫也。」、段注に「淮南說山訓。雞頸已瘻。高注。頸、腫疾也。雞頸、水中芡也。鍇本作頭腫。葢淺人恐與頸癅不別而改之。腫、癰也。頸腫即釋名之癰喉也。」とあり、頸の淋巴腺の腫物である瘰癧(るいれき)という。瘻(ル)は、『集韻』に「瘻、痀傴脊也。」とあり、背の曲がる痀瘻(クル)病とする。瘡(ソウ)は、『玉篇』に「瘡、痍也。」、『集韻』に「痏也。」、『韻會』に「瘍也、痍也。」とある。瘻瘡(ロウソウ)は、腫物と皮膚の潰瘍か。
○瘻
○蜈蚣(ゴコウ)
『本草別錄』に「蜈蚣、生大吳川谷及江南、頭足赤者良。宗奭曰、蜈蚣、背光、黑綠色、足赤腹黃。有被螫者、以烏雞屎或大蒜塗之、卽愈。時珍曰、蜈蚣西南處處有之、春出冬蟄、節節有足、雙鬚岐尾、性畏蜘蛛、以溺射之、卽斷爛。」 とあり、ムカデのこと。
○驚蹶(キョウケツ)
蹶(ケツ)は、『說文』に「僵也。一曰跳也。」とあり、倒れる、跳び上がること。驚蹶(キョウケツ)は、驚風のことか。驚風(キョウフウ)は、小児のひきつけを起こす病気の称。
○蔥須
蔥(ソウ)は、『字彙』に「葱本字。」とあり、葱(ねぎ)のこと。須(ス)は、『說文』に「面毛也。」、『廣韻』に「俗作鬚。」とあり、鬚(ひげ)のこと。