不思議の国の不動産。不動産をめぐる、知っておいた方が良い、ひどい目にあわないための、本当の話。

 

境界をめぐる神学論争



八幡の藪に足を踏み入れて

「ここはおらのものだから入っちゃいけない」 「いや、おらのものだ。おめこそ出てけ」 と小学生のごとき喧嘩が始まって、侃侃諤諤10年や20年、いや何世代にもわたって続くのが境界論争である。

なにやら似たような匂いのするものがあるなと、思い至ったのが神学論争である。

その神学論争というもののひとつの特徴は、アプリオリに無批判に存在する神なるものがあって、すべての事象・現象をクロスワードパズルのように、そのどこに嵌め込んでいくかという、たいへん立派な論争なのだけれど、小生のごとき雑駁な人間にとっては手におえないもののひとつであるにもかかわらず、キーボードの勢いで、なにやら八幡の藪に足を踏み入れてしまったような感がなくもない。

そもそも境界とは何か。地球は丸いというのが今日の常識になっていて、いや地球は丸くないと言う神学者もまだいることは承知しているが、いちおう丸いとして真っ直ぐに歩き始めて地球を一周するとまた元の場所に戻ってくるというふうに、どこにも区切りがあるわけではない。

その地球という球面の上を任意に区切って、直線を引いたものが境界である。 

えっ、直線じゃないだろうって? 

まあ、いまにわかるよ、君。

と、まあ大風呂敷を広げておいて、その大風呂敷の上を跳ね回る蚤のごとき話しがこれから始まる。

 

地球の上に線を引きたまう?!

日本では、法律によって、登記所が土地の範囲を画する線を引き、その一筆毎に地番が付けられており、それそれの隣りあった地番と地番の境(地番界)は筆界と呼ばれる。

筆界は、公法上つまりお上が定めた線と考えられていて、土地の所有者といえども勝手にかえることができないとされておる。

だからして、土地の所有者が勝手に境界確定訴訟を起こして、境界を定めようなどとは不届千万であると、このためか日本には境界にかかわる法律がない。

しかし、現実には境界に関する血みどろの訴訟がいたるところで繰り広げられているのだ。

訴訟の当事者同士は、お互いここまでが自分の土地であると主張しあっている、つまり自分の所有権の帰属の範囲を争っているので、ある意味では結局どこかに線引きをしなければならないのは確かなのだが、誰も地球上に引く線を決めてもらいたがっているとは思えない。

でも裁判所は、訴訟の根拠はないのだけれど、ほかに請け負ってやろうという奇特な人も現れないから、いちおう昔から必要にせまられて裁判実務上双方の訴えを聞いているのだが、じつは密かに地球の上に線を引くことのみを考えているのだ。

 

最高裁かく言えり!

ここに最高裁判所の判決文の一部を掲げる。

「原判決は、本件各所有権確認請求を審理するにあたり、前提として本件各土地の境界を確定しているが、境界確定については、上告人と被上告人らとの間に合意が成立したことのみに依拠していること明らかである。

しかし、相隣者間において境界を定めた事実があつても、これによつて、その一筆の土地の境界自体は変動しないものというべきである。

したがつて右合意の事実を境界確定のための一資料にすることは、もとより差し支えないが、これのみにより確定することは許されないものというべきである。」

(最高裁判所昭和42年12月26日第3小法廷判決)

「境界確定訴訟にあっては、裁判所は当事者の主張に覊束されることなく、自らその正当と認めるところにしたがって境界線を定むべきものであって、すなわち、客観的な境界を知り得た場合にはこれにより、客観的な境界を知り得ない場合には常識に訴え最も妥当な線を見いだしてこれを境界と定むべく、かくして定められた境界が当事者の主張以上に実際上有利であるか不利であるかは問うべきではないのであり、当事者の主張しない境界線を確定しても民事訴訟法186条の規定に違反するものではないのである。

されば、第一審判決が一定の線を境界線と定めたのに対し、これに不服のある当事者が控訴の申立てをした場合においても、控訴裁判所が第一審判決を変更して、自己の正当とする線を境界と定むべきものであり、その結果が控訴人にとり、実際上不利であり、附帯控訴をしない被控訴人に有利であっても問うところではなく、この場合には、いわゆる不利益変更禁止の原則の適用はないものと解するのが相当である。」

(最高裁判所昭和38年10月15日 第3小法廷判決)

 

信じられない話?!

つまり、こう言っているのだ。

所有者同士がお互い納得して境界を決めても、そんなものは関係ない。あるいは裁判所に訴えたほう(原告)が主張する境界線より不利になる線に決めようが、裁判所が境界線だと思ったところが境界線なのだ、裁判所の勝手でしょ、と。

もっと言うと、原告の主張すら必要ないのだ。

この裁判は形式的形成訴訟といって、本来は登記所がやることを、裁判という手続でやるものだから、かならず境界線を決めるし、決めてしまえば境界杭があろうとなかろうと、原告・被告が納得しようとしまいと、そこが境界になってしまうし原告・被告の主張などあってもなくてもいいのだ。

さらに、一度裁判で境界が決められた後でも、更に同じ境界確定訴訟をすることができ、しかも裁判所はそれまでの境界確定訴訟の判決内容には拘束されないと言ってもいるのだ。

つまり、永遠に裁判できますよということなのである。

しかも、そうして決められた境界線は、所有権の範囲とは関係ありませんよと、言っているのである。

もともと本来は登記所で境界が定められているのに、争いがあるときは裁判所が境界を決めちゃおうというのだから、何の法律に基づいて裁判するのか法的な根拠がないうえに、その判決の効力が明確でない。

だから判決が出されても、その結果を登記するようにはなっていないし、当事者が地図訂正等の申出をすることができるとか、しなければならないとかの規定もない。

それじゃ法務局に申し立てればいいかというと、法務局の公図は土地の事実状態の把握を目的とするもので、土地の権利関係や境界に変動を及ぼすものではないから、不服申立はできない、ことになっている。

なんか、信じられない話でしょ。

 

それなら最初からそうしろ!

しかし、話しはこれでは終わらない

境界確定訴訟では、判決にもあったように客観的な境界の資料となるものがないと裁判所も境界をきめることができない、ということは本当の境界とは違っていても、客観的な資料があればそこを境界としてしまうのだ。

そして、裁判所が客観的な境界を知リ得るために資料とするのは、地図である。公図である。もっといえば絵図面かもしれない。

公図がだめだから、裁判しているのに、公図によって裁かれるということなのである。

しかも、その公図の境界が不明であるときは、境界確定訴訟を提起し、公図が間違っているかどうかを訴訟の中で判断しなさいといっているのだ。

なにやら、頭の中がこんがらがって、髪の毛を掻き毟ってしまいたくなるが、ただでさえ残り少ない髪の毛なのに。

ああじれったい。

もっとも、裁判所は境界がどこであるのかを確定できる段階になったところで、改めて和解を当事者双方に提案するのが普通で、和解によって境界を決めさせて、土地が増えたほうから減ったほうに、お金を払って、その分の土地を売買させるんだって。

つまりその分の土地を分筆して、それによって新しい筆界を作り出して、分筆した土地を売買すると、つまり通常の不動産取引をさせるわけだ。

それなら最初からそうしろ!

(注)平成17年(2005)4月6日「不動産登記法」が改正され、「筆界特定制度」が創設され、平成18年(2006)1月20日より施行された。

 

戻る
|