HOME>土地はどこへ消えた?>沽券にかかわる!? 沽券にかかわる!?そもそも日本ではじめて土地の所在を表示する地図が作られたのは、645年の大化の改新の翌年の「大化改新の詔」で、各地の地図を提出するよう記されているのが文献上もっとも古い地図ということらしいのだが、現存する地図では、正倉院所蔵の766年製東大寺領「越前国足羽郡道守村開田図」がある。
一所懸命という言葉があるように、かつて武士は自ら荒地を開墾していった開拓農民であった。 荘園制度の中で公に所有権を保護されることのない自分の土地は、命を懸けて自分で守るしかなかったわけだから、曾我兄弟に見るまでもなく土地争いや境界争いは頻繁に起こっていたわけだし、領主は年貢を取るためにも、何らかの形で土地の範囲や収穫高の掌握を必要としていたはずで、中世の荘園図とか村絵図とかいわれるものが多数残っている。
有名な太閤検地では、現存する検地帳はわずか20通、その中でも完全な形で残っているのは10通のみということらしいが、それは、田・畠・屋敷の一筆ごとに、その地字・等級(上中下)・面積・地目・斗代・名請人(百姓)、総石高、検地奉行の記載はあるが、登記簿のごときもので地図ではない。 江戸時代の検地の際には地番を入れた「地引絵図」などが作成されたが、見取図的なものである。 ちなみに「検地帳」には、字名、地番、土地の等級(上中下)、面積、所持者が一筆(一行)で記載されていたので、一個の土地を「一筆」と呼ぶようになったらしい。 また、江戸幕府は、原則として、田畑永代売買禁止令をもって土地の売買を禁止していたが、市街地に限って、売買譲渡に対する制限を設けなかった。 そうした売買自由の土地を「沽券地」といいその売買証文に年寄・五人組が加判したものを「沽券」といったのであるが、その台帳として「沽券図」を町名主に命じて作成させた。 ほぼ各町ごとに一枚の絵図とし道路や上水などを記し、個々の町屋敷ごとに、間口、奥行寸法、沽券金高(売買価格)、地主名、家守名などが記入されている。 売買の都度、所有の署名捺印した小片がつき、書き入れ文と年号が記されている。地籍図と土地台帳を兼ねたようなものである。 「沽券にかかわる」という時の沽券という言葉は、ここからでている。 1/2/3/4/5/6/7 1.登記所には地図がない? 2.沽券にかかわる!? 3.字限図 4.登記簿を信じちゃいけない?! 5.公図に書き込む場所がない?! 6.迷子になった土地!? 7.登記所にある図面 |